地球温暖化、大気汚染、植生破壊・・・現代の社会は大きな問題を抱えている。森は、今、環境を守るシンボルとなっている。人と森の関係史から、未来への道を考えてみたい。
森は「美しくこころよい場所」とよく言われる。しかし、それはイメージだけのもの、たとえば、カナダのハイダ族の森は、暗く湿って人を寄せつけない植物だけの場なのである。シャーマンだけが入る異界だと言い、村人が踏みいることはほとんどない。
閉ざされた森を利用するためには、何らかの手段によって「馴らす」必要があった。原始的だが強力な道具は火である。噴火や山火事に学んだ知恵であろうが、火をうまく使えば森が開ける。オーストラリア・アボリジニは、そうやって森を活用している。
もっとも一般的な森の馴らし方は労働力である。日本の里山は、ドイツのブナ林と並ぶ見事な例とされ、平地部での水田稲作農業を支えた、資源活用のシステムであった。
しかし、現在、里山は放置され、荒廃している。私たちはどう対応しているのだろうか。千里ニュータウンをとりあげてみよう。ここではブルドーザーで丘を削り、谷を埋めて更地にし、コンクリートや新建材の建物を建てていった。しかし、幸いなことに緑地として24%がのこされた。ほかに街路樹用の空間がある。その管理は主として官(市役所)がおこなっている。公共地では、コストが低く、育てやすく、美しい樹種を選ぶので、樹種は少ないが、手入れは(かつての里山のように)完璧である。これが、新時代の森である。
ここでは機能面だけを述べたが、森は精神面にも深く関わっている。景観としてこころに刷り込まれているからだ。市民が水田、川、池、里山といった昔の景観を守ろうとする活動には、それがよくあらわれている。実利と精神のバランスのとれた、落としどころはどこにあるのかを見つけ出すこと、それが私たちの責務といえるだろう。
(カンチョー)
コメント