吹田の地酒:2/18博物館トーク 藤井裕之「北摂の酒米」から

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吹田の酒づくり
摂津の国は江戸時代、酒の生産地として全国に名をはせていた。吹田は池田、伊丹、灘などとともに有力産地としてあげられており、寛文12年(1672)には525石、元禄からは900石を生産、江戸にも送っていた。吹田の酒づくりは明治以降もけっこうさかんで、(博物館にちかい)岸部や山田でも戦後まで記録がある。しかし、今、作り酒屋は隣接の茨木や高槻にはあるが吹田にはない(ビールはあるけど)。

山田錦とキナイオマチ
吹田の特長は酒米の生産地でもあることだ。北摂は江戸時代から良質の酒米供給地だった。それは谷あいで、昼夜の温度差が大きく、夏でも朝晩は涼しく、水が豊富で、水はけがよく粘質のある土壌で保水もよいという自然条件に恵まれていたからである。

酒米は現在、ヤマダニシキ全盛である。これは、昭和11年、明石農場試験所でつくられ登録されたものだが、これほどの銘柄になると、その由来について伝説めいた話がまつわってくる。
(その1)明治初年吉川町の田中新三郎が伊勢参りの途中、草丈が高く、穂の大きな稲を見つけて持ち帰り、酒米につくった。伊勢山田の地名にちなんで「山田穂」。
(その2)おなじころ、兵庫県多可郡中町の山田勢三郎が自田のなかから、とりだした。だから山田穂。
(その3)藍那(神戸市)の東田勘兵衛が茨木市雌垣の稲から試作。第3回内国博で日本一の称号を得る。山田村藍那の名をとって山田穂。
(その4)山田錦は『雄町系山田穂』ともいわれるが、これは三島雄町のことである。
最後の二つの話は、わが吹田にちかしいではないか。

キナイオマチは1960年ころから、子孫筋のヤマダニシキに追い落とされた状態にあるが、最近また復活のきざしもある。茨木の中尾酒造で「見山」という銘柄、寒仕込みでなので、3月には手にいるという。
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藤井さんの精緻な発表を、上のように自己流にこころに要約しておいて、恒例のトークをはじめた。ところがやっぱり、話が飛んでしまって、四国、青森、飛騨などの地酒の話でおわってしまった。

終了後の会話
「方々いかれて地酒がうまいでしょうねー」
「カンチョーと地酒を飲む会、やりませんか」
「ここは禁酒ですからねー、文化がわかっとらんと思う」
「酒蔵巡りはどうですか」
「昔の吹田の地酒を復元して、博物館から売り出せばと思ってるんですがねー」
「まさか」。

(by カンチョー)

写真(by こぼら+補正おーぼら)
高山市内のお店で見つけた、カンチョーそっくりの飲みっぷりの陶(酔)ウサギ
(もちろん似ているのは寝ころんでいる方)

コメント

  1. 団塊の婆 より:

    吹田村では「にごり酒」を作っていたという話があります。 なんとか、吹田のにごり酒を復活できないかと夢見ていたご老人がいらっしゃいます。

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