わたしと万博(48)…遅れて来た「中国」

1974年に万博跡地であった「中国博」って、覚えていますか?

2008年の今から考えるとシンジラレナイような話だが、EXPO70には中華人民共和国は参加していなかった。参加していたのは中華民国と香港政庁。当時、日本と正式な国交があった「中国」は、中華人民共和国ではなく中華民国だった。

万博の翌年、米ニクソン大統領が電撃的な訪中を表明して世界の流れは変わり、1972年に日本は中華人民共和国と国交を結び、中華民国とフォーマルな国交を断った。9月に田中角栄首相が北京へ行って、翌月にはジャイアントパンダが上野へやってきているから、ものすごく急速な展開だ。歴史の変わり目とは、そういうものだろう。

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…ということでEXPO70に参加できなかった中華人民共和国と日本が急に仲良くなったので、たぶん急遽?万博跡地で開かれたのが「中国博」だった。(オリンピックが「平和の祭典」と言われながら国際情勢に左右されるように、万博もけっきょく主催国の外交関係からは無縁でいられないってことですね…)

もちろんEXPO70の全体規模に比べたら、跡地のごく一部を使った小さなものだったけれど、「一国のためにやった」ということを考えたら十分ビッグイベントだった。東口から入ったすぐのあたりでやっていたと思う。

アルバムに貼ってあったチケットを見ると、1974年7月13日から8月11日まで。テーマは「新中国の紹介-理解と友好」だったようだ。「中人」って書いてあるのは僕が中学生だったからだ。正式名称は「展覧会」で、「博」にあたる部分はどこにもないが…。

1ヵ月のイベントだったから万博のアメリカ館やソ連館のような立派なパビリオンではなく、大きなテントのような展示館だったが、中国らしいゲートは仮設でも十分に雰囲気を盛り上げていた。

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「万博記念公園」を名乗ってはいても、まだ全然整備されていなくて、森にする方針もたしか決まってなくて、公開も一部しかされていなくて、ただの「跡地」と言っていい荒涼とした場所だったから、ひさしぶりに中に入れて、「万博らしく」人がたくさんいたのでそれだけで皆楽しそうだった。ゲートの背後にはお祭り広場の大屋根がまだ撤去されていないのも見える。

肝心の展示は…さっぱり覚えていない!中国の切手と、細密な切絵細工を買ったことは覚えている。実態は物産展のようなものだっただろうか?

大陸中国は広くて人口が多いことは当時から変わらないけれど、経済力はまだなかった。この時じゃなかったが、中国製のパジャマを母がいつか買ってきて、「機械じゃなくて人が手をかけて作ってるから安くて質がいいのよ」と言っていたのを覚えている(いくらなんでも手縫いじゃなかったはずだが…)。中国製で買っていいものと言ったら日常衣料ぐらいで、日本経済をおびやかすほどの生産力を持つなんて、想像もできなかった。まだ毛沢東や周恩来が生きていて、文化大革命が続いていた頃だ。そのパジャマはたしかに頑丈で長持ちした。「中国=パンダ」。それ以外の印象は何もなかった。

1974年8月。この月の30日には、東京丸の内で過激派による爆破事件があった。好きだった子を友達に取られて泣いた日だったから、よく覚えている。ナサケナイなあ。単純無邪気に感激していたEXPO70を過ぎて、僕の70年代はビミョーにやるせない思春期だったのだ…。

中華人民共和国はいつから万博に参加するようになったのだろう?オリンピックをやるようになり、2年後には史上最大の万博をやることも予定されていて、「中国博」以来34年の「長さ」を思う。

(by okkun)

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