わたしと万博(22-2)…情報産業論と万博

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万博は産業革命を経て、世界が工業の時代を迎えた頃に始まり、永らく重厚長大な人工物・モノの迫力を観客に見せつける場であった。日本のちょんまげ使節団もロンドンの水晶宮やパリのエッフェル塔に圧倒され殖産興業を心に誓ったに違いない。

それから100年、1970年の大阪万博にも各国自慢の新しい工業製品が多数展示されていたに違いないが、あまり記憶に残っていない。(*1)また大阪では堺臨海工業地帯で製鉄所、造船所、発電所など重厚長大なモノ・エネルギーの製造装置が完成に近付いていたが、それが人々の感動を喚起したようには思えない。

何故だろうか。

このことは梅棹先生の「情報産業論」(*2)で解釈すると理解しやすい。つまり当時「情報産業論」は未だ人口に膾炙していなかったとしても(*3)、私たちは単に筋肉・骨格の機能を代行するモノ・エネルギーの製造装置や製品に、もはや、感動を覚えなくなっており、全く新しい原理に基づいて開発された工業製品、即ち新しい情報が組み込まれた製品にしか価値観を持ち得なくなっていたということではないだろうか。そしてこの意味での画期的に新しい工業製品を大阪万博の展示品の中に見つけることは出来なかった。(*4)

(*1)エンターテイメントでは強く印象に残ったものがある。チェコの「ラテナマジカ」(Laterna Magika)だ。映像と演劇が交錯し、リアルかバーチャルか、区別がつかない不思議な体験をした。大して話題になることもなかったが、現在のインスタレーション芸術の先駆けといえるものかもしれない。
(*2)梅棹忠夫『情報産業論』…放送朝日63年1月、「情報の文明学」中公文庫99年4月に所収。簡単に要約すると、農業―消化器官機能の充足、工業―筋肉・骨格の機能の代行、情報産業―脳・感覚器官機能の充足であると論じている。
(*3)情報産業論は、急速に人々の理解を得たということはなかった。「~発表当時は、このかんがえかたの全体像を正確に把握するには、時代の条件が熟していなかったのかもしれない。今日にいたって、論旨に対する理解とともに、論文の評価もようやく安定してきたのかもしれない。」と著者自身が回顧している。(「四半世紀の流れのなかで」88年2月、「情報の文明学」 中公文庫99年4月に所収)
(*4)大阪万博で初めて紹介された製品として、自ら万博フェチを名乗る日本経済研究センター・坂川弘幸さんは、ワイヤレスフォン・現在の介護浴槽に繋がる人間洗濯機・ファストフードを挙げている。いずれも情報、生活関連機器・商品であり、筋肉・骨格機能代行品ではないところが注目される。(参考リンク…会員限定)

(kafuku)

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