自然環境の指標

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JR吹田駅の近く、内本町コミセンの向かいにある高浜神社には「鶴の松」という松の株が残っている。花札の「松にツル」や千歳飴に描かれる縁起物の絵も松にタンチョウが書かれているが、ツルは足の構造から木の枝にとまることができない。したがって松にとまっているのはコウノトリだったのだろう。このように50年前までは日本各地でコウノトリを見ることができたそうだ。しかし高度経済成長とともに1985年(昭和60年)にはコウノトリは絶滅した。トキはもっと早く1971年(昭和46年)に絶滅したといわれている。その後関係者の言葉に尽くせない努力の結果、3年前に豊岡市でコウノトリが、そして今年、佐渡でトキが放鳥されるまでになった。放鳥の前提として、当然のことながら彼らが自然界で餌を獲れることが必須条件で、彼らの餌となるカエルやドジョウの育つ環境が地域全体に求められるのである。カエルやドジョウが自然に増えるためにはそれらの餌となるものも豊富でないといけない。

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先日、吹田自然観察会主催の豊岡市にあるコウノトリの郷の見学会に参加した。参加者全員でコウノトリの郷にある田んぼの生き物調査をしたところ、たった30分間でゲンゴロウやドジョウなど15種類の生き物を捕獲することができた。このようにコウノトリが生きていくためには地域に多様な生物が生息できる環境が必要なのだ。そのためには農業をはじめとして地域ぐるみでの取り組みが必要であり、その取り組みは将来にわたって継続していかなければならないものである。その環境こそコウノトリだけでなく、人間にとって住みよい環境なのだ。

1992年6月ブラジルで開催された国連環境開発会議(地球サミット)で「生物の多様性に関する条約(生物多様性条約)」が提案され、日本は1993年に批准し、締約国になった。その条約に基づき日本は1995年に生物多様性国家戦略という国家的な戦略、実施計画を策定し、その後2002年、2007年に改訂をおこなっている。そこでは 1.生物種が絶滅・減少していること 2.里山が手入れされなくなったため、その地の自然環境が変質したこと 3.外来種の侵入によって、既存の生態系が撹乱されることの3つの危機を定義している。

そして 1.生物多様性を社会に浸透させ 2.地域における人と自然の関係を再構築し 3.森・里・川・海のつながりを確保し 4.地球規模の視野を持って行動するという戦略が示されている。このようにして各地域も「生物の多様性」という概念を施策に取り入れることが求められる時代になっている。

吹田市をみたとき、1960年代ころから公害対策としての水質、大気、騒音に関するデータは毎年積み重ねられている。しかし市内の動物、昆虫、植物、キノコなどの生き物に関するデータはほとんどないと言って過言ではない。地球温暖化を云々する時、過去百年以上の気温データの蓄積があればこそ議論や評価ができるのだが、生き物のデータがないと将来「生物の多様性」についての評価すらできないことになる。世界環境都市を目指す吹田市としては自然環境の指標として、生き物の記録を残すシステムを作ることが急務であると考える。

すいた市民環境会議会報誌08年10月号「会長コラム」より (おーぼら)

コメント

  1. カンチョー より:

    ここに入れるべきコメントを別のところに入れてしまった(「吹田アーカイブ構想と・・」に)。私が言いたいのは、コウノトリの再生努力にみられる、自然界の生態バランスの複雑さ、難しさです。日本の里山は水田と密接に関係しながらつくりあげられたものですが、今、水田は経済価値をうしない、捨てられています。キシベ神社の古い絵図とグーグルアースをくらべていて、絶望的な気持ちになりました。すごい勢いで都市化が進む吹田で、紫金山を生かすためには、復元をはかるのではなく、ドイツの「遊ぶ森」のような、まったくあたらしい里山を作る必要があるのではないでしょうか。操車場に森を作り、紫金山と緑の回廊でつなぐという考えもあり得るとおもいます。

  2. okkun より:

    そうか、「人がいない公園」と「人が来ない博物館」は同根ですね。いわゆる「お上」が「これこれ~シモジモの民よ~特別にこのお宝の公園(or博物館)を見せてしんぜよう~ただし触っちゃダメぞよ~ボール遊びもダメぞよ~」みたいな…。カンチョーの母校の近くの吉祥寺に井の頭「恩賜」公園ってのがありますが、「恩賜」ってあたりがオリジナルの設置態度を表していますね。(あそこは春とか酔っ払いがメチャクチャだけど…)ドイツではある時期自然を破壊したから自然にこだわり始めた…については、休みの日は大木に抱きついている某お医者様が「僕らの世代が一番今まで自然を破壊してきたから…」とおっしゃっていたのを思い出しました。また、NT展の委員だったある方が堺のほうで森を植えるボランティアをされていて、「生きている間に森のひとつぐらい残したいと思って…」と言われているのを聞いた時は、かなり感動しました。

  3. カンチョー より:

    コンピュータに代表される現代社会に暮らしている私たちのアタマがある時、大転換して、自然のなかで遊んでいるほうがいいやと思うときが来るのかもしれません。(小松左京の「日本アパッチ族」を詠んでるせいかもしれません、あるいは金融問題がこれほどさわがれてるのに、昨夜、飲み屋でなんとも気楽にのんだせいかしら))。ドイツにいったとき、これほど「自然」にこだわるのは、彼らがかつて(中世から、20世紀まで)自然を徹底的に破壊して、消し去る寸前まで追い詰めたときに、そんな考えが出たのではないか、その意味では、自然に恵まれた日本人はまだそこまでいたっていないのではないか、と思いました。公園は行政に与えられたものではなく、それぞれが楽しむ場所、そのための知識と方法がまだ蓄積されてないのでしょうね。誰か、ハウツー本書いてみませんか?

  4. もぐら より:

    縄文に帰るような印象をうけました。「里山」=「公園」ではないような気がしています。日本の「公園」はなんか「楽しくない」…。なんでかなあ。

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