1.5万年前頃の氷河期のピークのあと、地球はどんどん温暖化しました。その結果、海面がもりあがって、内陸に押し入ってきました。今わたしたちが、地球温暖化についておびえているような現象が、現実に起こったのです。その結果、日本列島はやせ細り、北で樺太とつながっていた陸橋も消えて大陸から隔絶されてしまいました。
縄文時代は1.3万年前ころ土器が発明されて始まりました。大型動物がいなくなったので(シカ、イノシシなどの中型獣はのこりましたが)、主食を肉から植物へと変えなければならなかった。
温暖化のため、森は東日本では針葉樹林から落葉樹林へとかわり、もっと暖かかった西日本では照葉樹林になりました。さいわい、ここでは食料となる植物の種類が多く、育ちやすかった(とくに落葉樹林で)。植物の毒やアクをとりのぞき、デンプンをアルファ化して、消化しやすくするには、土器で煮沸することが効果的だったのです。そして、量がおおい植物食が開発されたことによって、人口が増加していったのです。
・・・ということで縄文人は温暖化に困ることはなかった。
気候の温暖化によって吹田付近の景色はどのように変わったのでしょう。寒い頃、川がながれ湖沼と草原が広がって、ナウマンゾウやオオツノジカが歩き回っていた瀬戸内海は海になってしまいました。森は現在とあまり変わらなかったようです。海岸は五反島遺跡の付近まで押し寄せてきていました。そこで縄文人は、貝、魚、海獣、海藻などの海資源を積極的に開発したのです。タンパク源は、前の時代より楽に手に入れられるようになったでしょう。
画・秋元宏さん「約5000年前の吹田」
吹田市で、現在発見されている縄文時代の遺跡は13ケ所、千里丘陵の東麓から平野部にかけて分布しており、縄文時代のほぼ全期間にわたって、人が住んでいたようです。
吹田市では本格的な縄文時代の発掘が行われていないので、集落の遺構やまとまった遺物は発見されていません。だから、どのように村をつくり、家を建て、ものを貯蔵し、死者を埋葬し、儀式を行っていたかは、ほとんどわかっていません。
しかし、道具類を見ると、矢先につける石の鏃、槍先につかった先頭器、動物の皮を剥いだり、肉をきったスクレイパーなどが出ていることから、狩猟を行っていたことは確実です。また、人工遺物は見つかっていないのですが、五反島遺跡からは、砂浜でとれるハマグリ、マガキ、オオノガイ、やや深いところにいるアカニシなどの貝類(写真下)やウシサワラなど魚の骨が見つかっているので、漁労もやっていたことがわかります。気候の温暖化がピークに達した7000~6000年前に海面が上昇して、今の大阪市の平野部は浅い湾(古河内湾と呼ばれている)になっていたので、海資源の開発が始められたのでしょう。
近隣遺跡のありかたを参考にすると、西日本の遺跡は東日本と比べて、規模が小さく、遺物も少ないことがわかります。東日本の縄文社会が定住的でしっかりしたムラをつくったのに対し、よく移動する生活が長く続いたようです。
しかし、縄文時代が終わりに近づくにつれて、遺跡数は増えていき、本格的な稲作が導入された弥生時代以降は、人口がぐんぐん増え、日本の中核となる地域に育っていくのです。
(カンチョー)
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