動物と人間はまったく別のモノで、子どもができたり、途中で変身したりすることはない(もっとも、最近は内臓移植や血清など医学が発達しているので、いつの間にか内臓がブタになり、脳がサルになるかもしれぬという不安も感じるのだが)。
しかし、わたしたち現代人の常識は、西洋発の近代科学の成果で、時間的、地域的に大観すれば、偏りのある、新しい考え方だということもできる。人も、動物もいや自然現象ですら一体であるとするアニミズムが、ふるくは世界に普遍的にあった。ギリシャ神話、イソップやグリム童話、今昔物語、をはじめ各地の神話、民話に明らかだし、深層心理学の重要なテーマになっていることからもわかる。
そんな精神世界がしっかりと生きているのをつよく感じたのはアーネムランドのアボリジニのムラで暮らしたときのことだった。たとえば、カンガルーは常食に近い重要な動物だが、トーテム(自分たちもその一族だと思っている)とする人たちは、どんなに飢えても口にしようとしない。イカ、サメ、ナマズ、ツル、そしてワニも。
わたしが初めてアーネムランドに行ったとき、イルカラという町で、女性がワニに襲われて死んだ。白人社会は、パニック状態になり、海への立ち入りを禁じたり、駆除しろなどと大騒ぎになった。ところが、アボリジニたちは奇妙な沈黙、口にさえしなかった。
数年後、ムラに使いが来て帽子が回ってきた。何人かの男が札束を入れている。まったく前を素通りする人もあった。変な雰囲気で、ようやく彼らも私に心を開くようになったと思っていたのに、聞けるような状態になかった。
あとで、白人アドバイザーに聞いたこと。「あれは、例のイルカラのはなしさ。おまえたちがまじめにlook after(世話することの意だが、この場合、ワニに尊敬の念をもち、ただしく儀式を行うという精神的な意味がつよい)しないからだ、賠償金をはらえといってきた。だだし、トーテムではないグループの人々には関係ない。ボスはワニの一族でね、あの強欲と言うべき男が、文句一つ言わずに払ったのだからおどろいた。帽子はアーネムランド中のムラを巡っているはずだ」。
ダーウイン博物館には、マチカネワニのような、巨大なワニの剥製がある。第二次大戦後(確かな日時はわすれた)港にあらわれて、何度も人をおそったそうだ。「あいつはあのとき、頭が狂っていただけ、ちゃんとつきあう方法はあるのだから殺す必要はなかったのに」とアボリジニの友人が残念そうに言ったのが印象的だった。
現在、この地球からたくさんの野生動物が姿を消している。日本でも、とくにクマのようなキケン動物が出没すると、駆除の声が上がり、実際に駆除されてしまう。彼らは旧石器時代からいて、人間も危険を承知しながらつきあってきたから、今でも生存しているのだ。それがなんでいまさら・・・。動物にも生きる権利がある、いや人類は多くの生命とともに共存しなければならないということが、環境破壊が危機的状態にいたり、地球そのものの存亡にまでかかわってきた今、ようやく欧米でも真剣にとりあげられるようになった。
人間中心でないアニミズム的思想をもういちど考え直す時ではないか。とくに日本人は、つい最近までそうだったのに。ワニと暮らす人たちのムラでそんなことを考えていた。
(カンチョー)
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先日、和歌山の山間部に出かけたときのできごと。山の斜面の日の当たる場所でヘビがとぐろを巻いてはいたか゜じっと、まるでひなたぼっこを楽しんでいるように動かずにいた。頭部の様子からマムシではないかということになり、近くに住む人たちに確認してもらった。答えは「マムシ」というより、即退治行動に入った。太い棒などでたたかれ、つかれ、アットいう間にひなたぼっこを謳歌していたマムシは「マムシ」というだけで殺された。ボロボロに。確かに毒を持つ彼らは私達人間には恐怖の対象である。でも、基本的にヘビは人間を怖がるとも言われる。人間を殺した人間が裁きで死刑になることはあまりない。しかるに、人間に直接害を与えていない、かのマムシ君は殺された。マムシというだけで。