中西家は吉志部郷の淀藩領を束ねる大庄屋をつとめていました。淀藩は、「摂州大庄屋」「摂州嶋下内淀領大庄屋」として、淀城から少し離れた摂津国嶋下郡内の藩領村々を束ねる大庄屋を設けており、藩からの達書は大庄屋宛に出されました。反対に、村々から藩への願書や届けも大庄屋を経由して藩に提出されており、大庄屋は村々を束ねるだけではなく、藩と村々とをつなぐ重要な存在でした。
吉志部郷のうち吉志部村だけは高槻藩領でしたが、他の小路村、東村、南村、七尾村は淀藩領です。史料をみると、その4ヶ村以外の村にも関係することがらについて、東村の中西家だけでなく、同じく摂州大庄屋をつとめていた佐井寺村の谷家、山田村の田中家が奥書・連署しています。また、田への引水などのことで村々の間に争いや問題が発生すると、他村の大庄屋も奥書していますので、大庄屋は第三者の立場から村々の仲裁を行うこともあったと考えられます。
(池田直子 吹田市立博物館)
コメント
中西さんとこって、すごかったんですね!びっくり!
子どもの頃は今は埋め立てられてなくなってしまった屋敷の前の池で毎度ザリガニ釣りや亀釣りしてました。
小路村の元悪ガキより