【新シリーズ】わが町、千里ニュータウン 1

■はじめに  小山修三
この展覧会がうまくいくかどうか、意味あるものになるかどうかは、みなさんの「ふるさと千里」に対してもつ愛をどこまで表現できるかにかかっていると思います。今風の言葉でいえば、ふるさとを思えば、胸がキュンとか、目がテンになるというのでしょうか。
千里ニュータウンの初期に移り住んできた人たちのほとんどは、それぞれ別のふるさとを持っていたはずです。しかし、40年という月日を閲するうちに、いつしか新しいふるさとになってしまった、まして、ここで生まれ育った第二世代、第三世代の人たちにとっては、ふるさと以外のなにものでもありません。
だから、お国自慢でもいい、いや、むしろそれが強ければ強いほど(逆説的ですが、見知らぬ民族の小さな村に住み込んで、そこからその社会を捉えようとする民族学の手法にも通じるものです)普遍性をもつことになり、他地域の人々にも興味を抱かせ、惹きつけると思います。

このブログに「わが町」というコーナーを開設し、男女、年齢別、地域別などの意見をとりあげてみたいと思います。第一回目は秋元さんにお願いしました。

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「ニュータウンへUターン」 秋元 宏

結婚して1年後1968年、運よく公団賃貸住宅の抽選に当たり竹見台3丁目に住むことになった。3Kの中層集合住宅である。やがて追加の2子が生まれ、計3人の娘とわが夫婦の5人家族の生活がニュータウンで始まった。
隣近所をはじめ団地全体のほとんどが私どもとほぼ同世代で同様の家族構成。若い街であった。同じ時期に入居、そして子どもが生まれ、やがてその子等は学齢期を迎えた。
当時の千里周辺の人口密度をメッシュでみると、竹見台地区は1万人以上/km2(資料1)。とにかくすごい子どもの数であった。上の娘が4年生を迎えた1977年、児童数1708人、44クラスと“マンモス校解消”のため、吹田市は竹見台小学校を同じ敷地で2分割して学校を2つつくるという措置をとった。地元はあまりに安易な妥協だと反対して大騒ぎとなった。

入居当時、私は神戸の夜間定時制高校に勤務していた。午前中、幼い娘を連れて近所を散歩していると、「あの人かわいそうに失業中とちがうか?」と噂になったこともあった。朝に出勤して夕刻帰宅、という生活パターンからはずれると異端視されるほど、近所の住民の見かけ上の暮らしは生活サイクルにおいても均質であった。
3人の娘が全て小学生になった1977年夏、この過密小学校とか、またニュータウン住民の生活の均質性が子どもの成長に適当でないと考え、思いきってニュータウンを脱出、当時まだ周囲に田圃や畑・竹林の広がる江坂の分譲集合住宅に引っ越した。
そこで子どもたちは近所の農家のお世話にもなり、ニュータウンでは味わえない、農業体験をはじめさまざまの生活体験を経験することができた。おかげさまで、娘たちは心身ともによく育ち、それぞれ巣立っていった。

夫婦ともども60才を越えた2000年、収入も減ってきたので、もう少しコンパクトな生活をと考え、江坂の住宅を売却、かねがね考えていたニュータウンの府営住宅を申し込んだ。幸いこれに当選、入居できた。これが現在の住居である。つまり“ニュータウンへUターン”となったわけである。
Uターンして驚いたのは、ニュータウンはかつてのニュータウンではなくお年寄り(といってもわが夫婦とほぼ同世代)がほとんどを占める“オールドタウン”になっていたことであった。我が家と同様、多くの第2世代の若者は巣立ち、老夫婦だけの所帯が目立つ。
かつてのマンモス大規模小学校は過疎化が進み、2分割されたままそれぞれが各学年1クラス(1学年10数名~30名)の編成の小規模校になっていた。この2つの小学校が創設当時の姿に統合されたのは昨年だったことは周知のとおりである。

ニュータウンの私たちの住む地区の高齢化などのありさまは、何もこの地区に限ったことではなく、日本全体を通じて多くの地域で見られる現象である。ただ、かつての見かけ上“均質”なこの地域のコミュニティは、今日となっては他地域よりもかえって多様な社会経験の持ち主の集まる“中身の多様”な地域となっているようである。さらに家族的に同境遇の人たちが多いだけにコミュニティの形成がうまくいくと、おもしろい安心して住める環境が期待できる地域であるとも思う。

 

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