館長ノート 4

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奈良の町で考えたこと。
千里ニュータウンの家のサイズのことを考えていたところ、京都に行く機会があり、祇園でやけに小さなくぐり戸をみたことを思い出して、御池通りの北あたりをぶらぶら見て歩きました。しかし、これというものが見つけられなかった。
そこで、思い立って(天気もいいことだし)、今日(11月10日)は奈良へ調べにいってみました。これがパトカン(パートの館長)のいいところですね。ちょうど正倉院展が開かれていて人がいっぱい、うちの博物館との差は何なんだろうと考え込んでしまいました。

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まずは、
興福寺の五重塔の近く、塔の茶屋、柳茶屋、江戸三旅館などの茶店や離れがあるところ。家屋はそれぞれ独立してたてられ、箱庭の家のように小さくつくられています。それでも、測ってみると、入り口の高さは170cmありました(もっと小さい印象をもっていたのですが。ここで鍋を食べると一人一万円ぐらいとあるので、洒落とか遊びのものなんでしょうね)。

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次は「ならまち」。
表通りは大店、中店がならび、古いものは屋根や軒高をはじめ、全体に低い感じはするものの、入り口の高さは170cmくらい、しかし、路地裏の家々もほぼ同じでした。改装中のものがあり、入り口の高さを角材をかまして上げていました。また、玄関を、より高く幅の広い「サッシ」にかえているものが多い。サッシは入れた時期が新しいほど大型化している。しかし、なかには160cmを切るような古い玄関口や、低いくぐり口をとりつけた戸もみかけました。

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そこで考えたこと。
まちとニュータウンのちがいは、外観が多様であるか、単一的であるのかではないでしょうか。「まち」は、主に経済の風向きによって、建築物が雑多なモザイク状の変化をおこしています。地域が突然、拡張して立派になったり、小さく分割されたり、ときにはきえてしまったり。弱肉強食的な負の面もたしかにあるのですが、それをたくましくのりこえる自由な庶民の姿が見えるようです。

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これに対して、
ニュータウンは、中層の集合住宅を中心にイメージすれば(これが当初の入居者に鮮やかな新しい印象を与えたことは前回書きました)、景観は基本的に変わっていない(コンクリートの半永久的な素材でたてられていること、府による厳しい管理とかといった動きを鈍らせる要素もあるのだが)。そのことがある意味では、「みんな平等」という、戦後民主主義のあり方を具現しているといえそうです。それが千里ニュータウンの性格(文化や気質)を決定している大きな要素の一つではないかと思いました。

●ここまで書いて、昔の住人に意見を聞いてみました。
わかるけど、それほど単純じゃないよとおっしゃるのです。分譲住宅地区やのちに林立して建てられている圏外のマンション群も含めて、ニュータウンでの建物拡張や建て替えの経緯と要因をしっかり調べる必要があると思いました。建築史に興味のある方の意見をぜひ聞きたいと思います。

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