トイレットペーパー騒動-個人的思い出

当時私は中学生でしたが、わが家であの騒動を一番克明に記憶していたのは、母でした。「忘れもしない、1973年の11月1日だった。」と母は言っていました。木曜日です。当時母は古江台のYWCAで英語を教えており、その曜日はクラスがあったこと、111というキリのいい日であったことではっきり月日を断言できたのだと思います。(前日の夕刊にトイレットペーパーを買いだめしている家の写真が出たことも、母は覚えていました。つい最近、当時の新聞を見ることが出来、10月31日の夕刊にたしかにその記事が出ていたことは確認しました。)その日母は昼間ずっとYWCAにいたのですが、仲間の奥さんから「大変よ、スーパーでトイレットペーパーがすっからかんよ」と昼頃に聞いたらしいのです。ところがまだクラスがあったため抜けるわけにもいかず…夕方ようやく解放されて北千里に行ったら紙製品の棚はすべてモヌケのカラ。出遅れた母は、かろうじてそれだけ残っていたリードペーパータオルを買ってとぼとぼ帰ってきた…という結末部分は僕の記憶です。

わが家ではその少し前にトイレットペーパーは買っていたので困りはしなかったのですが、当時、ペーパータオルはまだ売り出されたばかりで、それを使って調理をする…というモダンなライフスタイルを、まだわが家では採用していませんでした。いつまでも使わないままのペーパータオルが台所に残っていたことを覚えています。(他の紙製品が払底していたのに、ペーパータオルだけが残っていたことからも、まだ生活に定着していなかったことが伺えます。)トイレットペーパーの代わりに使うわけにもいかないし…。今はわが家もペーパータオルを使う生活に進化しましたが、リードペーパータオルを見るたび、1973年11月1日のトイレットペーパー騒動を思い出してしまいます。

その年の冬は石油も販売制限があって、暮れには今の医療ビルの場所にあったガソリンスタンドまで石油のポリタンクを持って買いに行かされました。近所のおじさんにも持っていただいて、坂道をエッチラオッチラ上ってきたものでした。

(by okkun)

コメント

  1. okkun より:

    「トイレットペーパーは1回60センチまで!」という吹田市民条例が大急ぎで可決されたのは、暮れも押し詰まった12月20日のことでした。事態が熱かったうちに条例を通した隣の豊中市は「1回55センチまで」としたので、同じNTに5センチでも差があるのはおかしいじゃないかと住民の論議を呼んだ…っていうのは全部エイプリルフールの冗談です!ごめんなさい!でも新聞か何かに「生活の工夫」みたいな記事で、「トイレットペーパーは1回60センチで十分です」と書いてあったのは覚えています。この騒ぎをきっかけに、変わったことっていろいろあるのでしょうね。うちがペーパータオルを使い始めたのもこの時だったかも…?

  2. 聞き書き2 より:

    (聞き書き1のつづきです)でも、灯油には困ったようです。生協で1冬分として30缶予約していたのが、来なくなってしまった。で、その時、頼りにならない生協を脱退したそうです。その年は、吹田の旧市内のお米屋さん(当時、米をそこから配達してもらって買っていた)が、日頃頼んでない灯油を売ってくれて助かったと、言っておりました。TVでは、その後共同購入活動がさかんになったと、いってましたが・・・。こんなわけで、わたしは幸いなことに、使用ペーパー量を制限されることもなく、また寒さにふるえてお使いに行くこともなく、のほほんとこの時期を過ごしていたのでした。

  3. 聞き書き1 より:

    okkunさんと同年代ですが、わたしにはこの件に関して、もちろん新聞などで騒ぎは知っていましたが、わが家がどうなっていたか、まったく記憶がないのです。で、母に聞いてみました。実は、彼女は9月末か10月はじめ、近所の薬局でトイレットペーパーが特価になっていて、あまりの安さに、まだ買い置きはあったけれど、1ケース(12個入りのパックがいくつか入っている段ボール一つ分)を配達してもらっていたんだそうです。中東戦争のことなどまったく頭になく、ただインフレに対抗する主婦の感覚だったようです。そのため、10月末に新聞に行列の話が出たとき、とっても不思議に思ったとか。ついこの間、大量に、それもすごく安く売っていたのに、なぜ不足するの?と。

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