GS(グループサウンズ)を知らない ― 5月27日(土)森本太郎とともに

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♪青い鳥を見つけたよ/美しい島で/幸福はこぶ小さな鳥よ♪ とどこからともなく聴こえてきたあの歌。長髪にエレキギターをぶら提げて、時折涙まで見せながら歌っていたザ・タイガース。

ザ・タイガースの森本太郎とともに ―グループサウンズ聴き語り

5月27日(土)13時30分~15時
吹田市立博物館 講座室

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♪おお プリーズ おお プリーズ / ぼくのハートを 君にあげたい / 君だけに君だけに / 教えよう 不思議な♪ とGSという言葉も知らないのに、誰かが小学校の教壇で左手に筆箱をマイク代わりに握り、右手を大きく前に伸ばして叫んでいた。私が始めて千里ニュータウンを訪れたのはそんな頃だった。
阪急電車は既に北千里まで延伸されていたのだろうが、そんなことは憶えていない。服部緑地への遠足の帰りに南千里駅のホームから眺めた桃山台の戸建住宅地は、ほとんどが空き地で、丘を削って造成したばかりの法面が土色をしていた。ホームと造成地との間の広い道路には車も通らず、服部緑地から一緒だった犬が一匹私たちの方を名残惜しそうに眺めているだけだった。反対側の佐竹台には団地が規則正しく並び、棟と棟の間には何もなくて向こうの空が見通せた。それが1968年の初夏だった。

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そして、しばらく続いたGSブームも、学生運動の衰退と万博の閉幕やビートルズの解散で終わりを告げた。ザ・タイガースの5人はそれぞれが独立して、沢田研二は1971年の秋に『君をのせて』という甘いバラードで復活した。その翌年の初夏と夏に、また、千里ニュータウンを訪れた。
向かったのは2度とも桃山台駅の西側にあるグラウンドだった。初夏には南千里駅から桃山台駅に向かって千里1号線を上って行った。道路の両側には高層住宅が建ち並び、木々はあっさりと道路や区画を縁取り清潔なまちだった。
夏休みに入って直ぐには、多分桃山台駅で降りて桃山台のグラウンドに向かったのだろう。真夏の暑さを感じることもなく桃山台グラウンドに着き、今のように木々が茂らず、一面しろつめくさの原っぱの横のテニスコートで思いっきり地区大会を戦った。

時は流れて、♪さよならぼくの美少女よ/きりきり舞いの美少女よ/いつまでもいつまでも/色つきの女でいてくれよ♪ とFMで流れてくる歌に懐かしい気持ちと何かが違うという気持ちがない混ぜになった。もはやGSはガソリンスタンドの略称になってしまっていた。その頃になると運転免許も取り、何かの用事で千里ニュータウンに来ることも多くなった。
千里1号線で東から、そして2号線で南から千里ニュータウンに入るところにある千里ニュータウンを示すコンクリートの大きなモニュメントは、生い茂った木々に半分隠れてしまっていた。整然と並ぶ団地群や広い戸建住宅地には、既に今のような落ち着きがあったようだ。
今でも千里ニュータウンに住んでいない私と千里ニュータウンの関わりは、随分以前からあって、それは運命的だったのかもしれない。だからこそ、今こうして書いているのでしょう。

(by kattan)

コメント

  1. くいしんぼ より:

    NT外の中学生だったkattannさんにとって、NTの風景はこんなふうに映っていたんですね・・・わたしは、ニュータウン内の中学生、それも南千里だったので、桃山台のテニスコートまで、高層住宅の並ぶ道沿いを歩いて行きました。けれども、思い出すのは桃山台駅内のパン屋さんのペストリーとか、ファンタとかスプライトの缶のデザインなど食べ物のこと。というのは、母が休日はお弁当は作らないと宣言をしていたので、試合の日は、おけんたいでパンやジュースの買える日だったからです。実は、これが楽しみで。かんじんのテニスの方は、いつもすぐ負けて、ほぼ1日、応援ばかりしてました。

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