わたしと万博(44)…原子力発電が美しい夢だった時代

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1970年8月8日、万博会場に関西電力美浜から原子力の電気が送電され、大きな話題になりました。その時、万博でその現場に立ち会われたOさん(当時入社11年目)にお話をうかがいました。

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1953年、アメリカの大統領アイゼンハワーが「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」をいって、それを受けて日本でも全政党が賛成して原子力予算をつけ、研究がはじまりました。それがやっとものになるのが1970年。「万博に原子の灯を」というのがキャッチフレーズでした。

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発電の現場にいた方がおもしろいので、全員美浜の方に行っちゃって、大阪に残っているのは、ぼく一人。それで、下っ端なのに万博会場の準備を、みんなやらされました。
電気が来たことを、何か「かたち」にして示す必要があったので、大ホールに電話器(当時は黒電話)を設置し、ホットラインで、美浜から関西電力の副社長・加藤博見さんが、万博の鈴木事務総長に電話を入れるということにしました。新聞記者に取材にきてもらうので、写真に撮ったとき目立つように受話器にリボンをかけたりしましたね。
送電された瞬間、パッと万博会場にあった大きな電光掲示板に「本日、関西電力美浜発電所から、原子力の電気が万国博会場に試送電されてきました」という文章が出ました。これも、ぼくが書きました。「試送電」なんてかっこわるいなーと思ったのですが、技術屋が、まだ許可を得て安定的に供給することがきまったわけではない、テスト送電だから、と譲らないので、妥協した記憶があります。
そうそう、事務総長には、お菓子を一折り持ってお願いに行きました。そうしたら、いいよといってくださって。お礼はそれだけでした(笑)。この方、のちに東京都知事になられた鈴木俊一さんです。
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実は、Oさん、現在O空港ターミナル会社会長で、たいへんなアイデアマンでいらっしゃる方です。その片鱗がみえるエピソードだとおもいました。このシリーズでは、みなさんに菓子折も持たずにうかがい、ご協力いただいています。本当にありがとうございます。

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写真は関西電力美浜発電所パンフレットから(おーぼら)
(聞き書き こぼら)

 

コメント

  1. こぼら より:

    えー、もしかして、明日か明後日に10万アクセス達成!?どうします、カンチョー!

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