10月19日(日)の講演会は、藤原学芸員の「有限責任大阪麦酒会社吹田村醸造所創業期の赤煉瓦建物~煉瓦の歴史から見る~」のお話でした。
明治5年(1872年)2月26日東京の京橋、銀座、築地でのちに「明治5年の大火」と呼ばれる大火がありました。類焼町数41ヵ所、罹災人口19,872人、焼死者8人、負傷者65人を出したこの火災の教訓として銀座に煉瓦街が出現し、歩道・車道も分離され近代的都市景観が作り出されました。
わが国の煉瓦はその大火の22年前、1850年には作られるようになっていました。ペリー来航の3年前、その目的は鉄製砲の製造というものでした。日本の煉瓦の歴史はまだ150年あまりなのです。
煉瓦には1.耐火煉瓦=白煉瓦と2.赤煉瓦とがあります。日本以外では2→1と製造方法が進化したのですが、日本は鉄を作るための反射炉(※)の炉体として製造されたので1の製造から始まりました。鋳造の技術に関してはは1837年にオランダの大砲の鋳造法の翻訳本が出ています。
(※)反射炉とは燃焼室で発生した熱(熱線と燃焼ガス)を天井や壁で反射させ炉床に熱を集中させる。炉床で金属(鉄)の精錬を行う。
ぺリー来航(1853年)以来、圧倒的な近代海軍力を見せつけられた幕府は近代海軍創設のために長崎に海軍伝習所を創設しました。オランダ国王はこれに応えて蒸気船スンビン号を寄贈、海軍創設のための教官も送り込みました。第2号の寄贈船が咸臨丸だそうです。
(スライドは建設中の長崎造船所の写真ですが、右の船が咸臨丸かもしれないとのこと)
幕末には大浦天主堂(1864)などの教会堂、明治に入ると鉄道構造物、造船、製糸、紡績工場など大型の産業構造物に煉瓦が使われるようになりました。
煉瓦のサイズは
グラバー邸(1860)は226×108×38mm、
大浦天主堂(1864)は200×110×39mm、
琵琶湖疏水(1887)は220×106×60mmなどと(サイズ)はばらばらでした。煉瓦のサイズが統一されたのは1925年に日本標準規格として210×100×60mmが決まってからのことでした。
煉瓦のサイズが標準化される以前の明治20年(1897年)ころには蒸気機関を使って煉瓦の大量生産ができるようになりました。
このような中、有限責任大阪麦酒会社(現・アサヒビール)の創業時の建物として鋳造棟は明治24年(1891年)に竣工しました。その実施設計をしたのは妻木頼黄(つまきよりなか)という明治を代表する名建築家。西尾邸にいた武田五一(1872年生:明治5年の大火の年でした)が師とあおぐ人物でした。
大阪麦酒会社鋳造棟の竣工から4年後の明治28年(1895)、吹田村西尾邸住宅の主屋(おもや)の大普請がありました。主屋の東に接して建てられた計量(はかり)部屋の床には、一面に敷き詰められた赤煉瓦、台所脇通路の腰部分、台所の外壁の腰部分などに煉瓦があたかもタイルのような使われ方が成されています。近代和風といえども和風建築にこれほど多くの煉瓦が使われていることは特異的で、この煉瓦の使い方には、大阪麦酒の操業開始にともなうことと、大正末期の建築家武田五一の指導に基づく煉瓦使用が混在しているという、独特の煉瓦文化が見られるのです。
(おーぼら)
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