お祭り広場を考えた西山夘三先生の教室に入った。(大学院)修士課程のときに今西錦司先生のアフリカ類人猿学術調査隊に設営担当師として入った。積水ハウスがはじめて作ったプレハブ住宅をアフリカに建てる仕事だった。ラグビーをしていた私が選ばれた。それを「ブワナ・トシの歌」(社会思想社)という本にしたらヒットした。小田実氏の「何でも見てやろう」がヒットしたあとの時代。65年に同名の映画ができ(石原裕次郎ではなく)渥美清が主演した。
卒業して大阪府に就職したら企業局(千里ニュータウンの開発担当部局)に配属された。EXPO70を前にして、68年に太陽の塔の中に世界の民族資料(仮面と神像)を集めることになった。大学紛争でアフリカに行く人が行けなくなったので私に役目が回ってきた。学生時代に東アフリカに4ヶ月あまり滞在し、多少のスワヒリ語ができたので東アフリカ担当となった。
アフリカの街なかでは槍を持った人から直接槍を買ったり、骨董屋で買い求めた。
ザンビアの博物館で村の人が踊ってた。「その衣装がほしい」と言ったら館長は「OK」と言ったので10万円くらいで一式購入した。陸送、船便では(消えてしまう)危険があるので高い輸送費を払って伊丹に空輸した。
======================
民族学博物館のアフリカ展示コーナーの中心資料は片寄氏が現地で收集したものです。
ブワナ・トシ=Mr.Toshi
======================
千里ニュータウンの開発
真鍋博さんや手塚治虫さんなどの未来都市論やレッチワースなど先進ニュータウン論の系譜のなかで千里ニュータウンの計画、開発が行われた。
理念として明文化されたものはないが、土地利用比率である程度読み取れる。緑地比率は24%(四分の一)と広い。
当時の大阪は大気汚染などの公害はひどかったが、人口が集中し住宅問題が最重要課題だった。そこで秩序ある住宅供給が必要だった。全国初のニュータウンのモデルとしての論理と独立採算原則の枠内での苦闘があった。その中で千里中央地区の商業地域を当初計画の二倍にすることで収支は一挙に改善した。
・用地買収は地域の権力構造を利用して行われ、地域のボスを落とせばOKだった。
・ 車は12世帯に一台と想定し、駅の近くには高層住宅を配置して多数が車が不要と考えた。現在「車を置く場所がない」とけなされるが、「車を置けない住宅」を考えたのだ。
・ 英国のニュータウンにはパブがあるが……千里には作らなかった。
・ 雨水下水、ごみ、はニュータウンの外で処理することで近隣に迷惑をかけていて「ニュータウンモンロー主義」と呼ばれている。
・ 千里ニュータウンの総括をしてから多摩ニュータウンなどを作ればよかったが、そうはいかなかった。大阪をモデルにしてどんどんニュータウンが作られていった。
などなど、昨年の講演の復習。
つぎに
千里ニュータウンと万博の関係であまり知られていないこと。
1)竹見台と桃山台の工事中の67or68年ころ突然「工事中止」の指示が来た。ニュータウンの工事と万博の用地買収が平行しておこなわれていたときだった。用地買収が行き詰まり、「売らないと万博会場はあっち(竹見台と桃山台)に行ってしまうぞ」と地権者におどしをかけるために(ニュータウンの)工事を中止したのだった。
2)ニュータウンの工事中に「高野台にごみ焼却場を作る話」が沸いてきた。猛烈な反対運動が起こった。一方で「万博会場のごみをどうするか」の問題も生じてきた。「万博と千里ニュータウンのごみを万博敷地で処分する」ということで高野台問題は一挙に解決することになった。
3)万博の跡地利用ですごいことは30年後をめざして森を作ったことだ。吉村元男氏をはじめとして計画的に森を作った。自然の流れなら跡地もニュータウンにする考えが自然なのに、せっかく買収した土地を万博後も売らずに森を作ったことは素晴らしい。
東京の「明治神宮の森づくり」以来の巨大プロジェクトだった。
さらに空中回廊=ソラードを作ったことも素晴らしい。
プロジェクト型(=ニュータウン)とイベント型(=万博)まちづくりの功罪
60~70年代当時「開発はすべて善」とされ自然破壊、まち破壊が平気だった。しかし当時から「夢と現実の違い」を多くの人が知っていた。結果は阪神淡路大震災で現れた。
・災害は 1.自然の猛威などの「素因」 2.それを災害たらしめる「必須要素」 3.大災害にする「拡大要素」の三つがある。
1.に尽力することは賢明ではない。2.の必須要素をなくす努力は必要だが、3.の根絶が必要です。
3.とは原発・乱開発、森林保全の放棄、地下街の増殖、超高層ビルなどがある。さらに災害に弱い人間が増えている。
・防災のまちづくりの基本は「人命か環境か」ではなく「人命も環境も」であり、コンクリートで固めることではない。自然の猛威といかに共存し、ソフトとハードで自然の猛威を「しのぐ」システムが必要。
地下施設には道路トンネル・鉄道地下鉄・駅・地下街・建物地下・駐車場などがあるが、これら施設責任者はばらばらで連携がないことは極めて危険である。
(1854年11月※に発生した)安政大地震津波の碑が大阪ドーム(=京セラドーム大阪)のすぐ近くにある。大阪は津波の経験があるのだが・・・
・50年後の老朽化した超高層マンション(は見ることはないだろう)が、心配だ。
千里ニュータウンから流れる山田川は堤防・川底をコンクリートで固め、ニュータウンから直線で神埼川に導いた。これは川を蛇行させると「売るべき宅地面積が減る」という考えからのもの。生き物との共存などの考えのなかった時代の設計なので、今後改修を考えたい。韓国ソウルでは高速道路を撤去して自然にやさしい川を作っている。
====================
ソウルの街なかにある清渓川(チョンゲチョン)を暗渠化し、その上につくった高速道路を撤去し、昔の川をよみがえらせた。(おーぼら注)
====================
阪神淡路大震災の教訓
・行け行けどんどんバブル経済のツケは災害に弱いまちを作ってしまった。
・復旧復興の中でコミュニティの崩壊と「見せかけの復興」がさらなる問題を生んだ。
・生活の質(QOL)の確保と向上のために、スローライフが求められ、公共事業の大改革が必要だ。
昨年もこの場で述べたが「花鳥風月のまちづくり」が必要だ。
「花鳥風月のまちづくり」とは、花がいっぱいで、鳥サカナ昆虫さらに人間が共に暮らし、風土(Food)=うまいものが食え、ゆとりをもって月を愛でつつ夢と未来を語り合うまちづくりだ。
========== ==========
安政大津波:
安政元年1854年11月4日の午前9時頃に東海・熊野海岸沖を震源として起きた安政東海地震と、その約31時間後の、翌5日の午後4時頃に、紀伊水道・四国南方沖の海域を震源として起きた安政南海地震のうち5日に大阪市内に津波が押し寄せたもの。
この東南海地震から153年経過しました。
「やがて来る」といわれています。
(おーぼら+こーいっちゃん)
コメント
てつさんのおっしゃるとおり白熱のレポートですね。いろんなことがリンクしているのがとっも面白いです。「ブワナ・トシの歌」、ポスターに渥美さんが写っていると男はつらいよに思えてしまう恐ろしさ?
トム・クルーズ(サムライ精神で)、ジェット・りー(ブルース・リーの後継者)、日本人ならガクト(ミステリアス)あたりはどうでしょう。いずれにしろ美男形がいいとおもいます。
おーぼらさま、すばらしいレポートありがとうございます!
高野台の焼却場反対運動では、地域の女性たちが奔走しました。2006年4月23日の「まちびらき当時を語る」フォーラムで、運動の中心となった木村さんが、活動のようすを話されましたが、子どもたちがタイヘンだった話も旧ブロク「千里ニュータウンが博物館にやってきた」の「わが町」で取材しています。↓
http://www.doblog.com/weblog/myblog/59738/2128953#2128953
よろしかったら、ご覧くださいませ。