講演会 吉志部瓦窯跡と平安京の瓦

京都文化博物館学芸員 植山 茂さんの「吉志部瓦窯跡と平安京の瓦」と題する講演がありました。

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歴史上数多くのものが作られてきたが、材料・かたち・性質が1400年間、ほとんど変化のないものは瓦だけである。しかし時間経過とともに少しずつは変化している。

瓦は江戸中期以後は民家にも使われるようになったが、それ以前は、寺・宮殿・役所に限られていた。従って、発掘で瓦が出ればそこは寺・宮殿・役所のいずれかだと推察できる。そして吉志部のような生産現場である。

考古学上で瓦が重要なのは
(1)瓦が生産された時代の政治の動きを反映している。
(2)軒先用の瓦に施された模様のついた瓦は型にはめて作られ、同じ形の瓦が多数生産されている。工場跡にある瓦の紋様と発掘現場から出た瓦を比べることで生産地が特定できるのだ。

土器の場合生産地と使用地が離れている場合、瓦のように生産地を特定することは困難だ。
瓦の場合吉志部と平安京のように30km離れていても生産地の特定は容易である。

(3)瓦の紋様の重要さは、その紋様(の崩れかげん)を比較することで生産された年代の前後がわかることだ。この方法で1400年を通して生産の時代がわかるのだ。

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平安京は794年に新しく作られたがすべてが新築ではなかった。大極殿(だいこくでん)など主な建物は長岡京などにあったものを解体して、部材は新しい都で使ったとわかってきた。地面に穴を掘り、柱を立てた掘立柱(ほったてばしら)も引き抜いてリユースされている。

一方、長岡京宮殿の調査では難波宮(なにわのみや)で使われていた瓦が出土した。
これは七尾瓦窯でつくられたものであることが紋様からわかった。

瓦を作る鋳型を考古学(の業界)では笵(はん)という。
同じ鋳型から作られた瓦を同笵品(どうはんひん)、同笵瓦(どうはんがわら)という。

平安京の調査はしつくされているように思われてるが、戦前では1~2件のみだった。
平安京に関する文献はたくさんあるので発掘調査がなくてもOKと思われていて調査が遅れた。
平安京全体の調査は戦後おこなわれ昭和60年代の市内の開発とともに発掘調査が進んだ。

現在の御所は鎌倉末期から室町時代のころ現在地に作られた。
平安宮の場所は現在の御所とは違ってた。
御所の少し西、千本通と丸太町通の交差点(上京区千本丸太町)付近で、住宅地なので十分な調査ができないし、(平城京や長岡京のように)史跡公園化もできない。

794年に作られた都の中心、大極殿(だいこくでん)の屋根の瓦は、難波宮+平城京+藤原京の瓦も使われた。木材のみならず瓦もリユースされていたのだ。
しかし以前の都からのリユースだけではなく大極殿の西に建てられた豊楽院(ぶらくいん)のように新築されたものもある。

大極殿だけで瓦は10万枚は必要だ。これらの瓦はどこで作られたか。

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主力工場は平城京の北、上賀茂神社の西にあった西賀茂瓦窯(A)だったが同時代に吉志部瓦窯(B)が作られた。最近(5年前)大山崎瓦窯跡(C)が発見された。
(A)と(B)の間にを同笵品(どうはんひん)が認められることから鋳型も交換されていたようだ。
(B)と(C)にも同笵品が見つかっている。
平安京の宮殿や周辺の(官営の)寺からは同笵品(どうはんひん)が出ていることから、これら三ヶ所は官営工場と考えられる。
一ヶ所の瓦窯での製品は複数の建物に配られたと考えられる。

保育園園庭の発掘現場:不要になった瓦が大きな穴(瓦溜)に埋められた。

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同笵品は素材の土と砂の違いで生産工場(A)西賀茂瓦窯と(B)吉志部瓦窯の鑑別ができる。
しかし(C)大山崎瓦窯の発見からまだ5年なので(B)と(C)の鑑別はむつかしい。
(A)西賀茂瓦に比べ(B)吉志部の粘土は均質で混入させた砂も均質で(A)よりきめ細かい。

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三ヶ所の窯は直線状に配置されていた。

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吉志部瓦窯跡のスゴイところは瓦窯とともに作業場、粘土採掘現場がセットで残っているところである。
燃料は周辺の山からだけの採集では間に合わなかったと考えられ、どこからか運送されてきたと考えるのが順当。

講演会のあと岸部自治会の方が参加者に吉志部瓦窯跡と七尾瓦窯跡を案内してくださいました。

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(おーぼら  きょうちゃん)

 

コメント

  1. もぐら より:

    わー瓦窯のお話があったんですね~。詳しいので内容がよくわかって助かります。

  2. khstar より:

    平安京の瓦と瓦窯の関係がよくわかり、大変参考になりました。ずばらしい

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