インフルエンザの民族学(その2): パンデミック

16世紀から本格的に世界進出を始めたヨーロッパ諸国は、広大な新大陸を易々と手に入れてしまった。その主たる理由は文明力の差なのだが、ほかに大きな力となったのは天然痘、はしか、インフルエンザなどの伝染性疫病が、原住民を大量に殺し、社会を崩壊させたからである。

画像アボリジニ社会の例で見ると、はじめて集計された1901年の人口は、植民地化(1788)されるまえの推定人口と比べ、五分の一に減じている。より範囲を限り正確にみると、当時、植民地の最前線であったノーザン・テリトリー州ではその後も人口減少が続き1901年の23,000人が1947年には15,000人にまで落ちている。これについては、支配者側の暴力が書き立てられる傾向があるが、伝染病が猛威をふるったは、伝承資料から容易に推察できる。同じ状況にあった北米の北西海岸諸族の例では、村が全滅したり、部族が消えてしまったなどの記録は枚挙に暇がない。

ヨーロッパでは、ふるくから国家が発達し、人の動きも盛んであったため、ギリシャ・ローマ時代以来ペストをはじめとするパンデミックの猛威をいくたびも経験している。しかし、大きな被害をうけながらも、免疫や防疫手段を次第に発達させ、なんとかしのいできた。そういう人たちが、保菌者、キャリヤーとなって新大陸に押し出したのである。

ところが、新大陸の狩猟採集社会は、ひろい領地に小さな集団(家族を中心とした30人前後のバンド)が孤立的にくらしていた。そのため、免疫がなく、医療についても、傷とか身体の不調はともかく集団の意識や体制は、今日の医学から見れば何らの組織的対応はなかったのである。

かれらは、重い病気に倒れたり死ぬことの原因は、神への冒涜、妖怪のたたり、人の呪いなどであると信じ、治療はまじないや祈りが中心だった。(日本でも、民俗に残る「虫送り」、神社に「疱瘡神」の社が立てられた例からそれがわかる。)

しかし、伝染病が外から来た人との接触がもたらすことが分かったとき、「外から人を入れない」、「集団がしばらくのあいだ山に隠れる」が世界に共通して見られる現象となった。

この民族の智恵は、今回の休校や公共施設の閉鎖と同じで、消極的だが効果的手段であることはまことに興味深い。

(カンチョー)

 

コメント

  1. てつ より:

    カンチョーわかい

    今日は エキスポカフェに 博物館から
    初めて使者が行くとの事

    ペーパークラフト 見て欲しいなぁ~ ぜひ(^○^)

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