1970年、小学4年生。父は国鉄という名の会社に勤めていた。転勤の多い仕事。1968年、私が2年生のときまでは吹田市に住んでいたが、万博の完成を待たずして東京へ異動となり、当時は東京の大井町に住んでいた。(惜しい!)
私にとって万博は、圧倒的に「未来」だった。鉄腕アトムと同一線上にある未来なのである。特に象徴的だったのは、新幹線だった。「新幹線はオレが作ったんや」と、姫路出身の父は自信満々に言った。「すげぇ」。電車なのに白い車両で流線型の新幹線を作るとは、父はなんて凄い仕事をしているのだろうと思った。信号課で運行システムを担当していた技術者であったのは、後に知ることになる。
1964年「夢の超特急」というキャッチフレーズを引っさげて登場した新幹線は、「ひかり」と「こだま」という名前が付けられ、光速と音速に例えられるほど速かった。「夢と希望を乗せた力」が凄い速度で「未来」を運んできた。
万博も同様で「すげぇ」の象徴であった。社会の授業では人口や人口密度、経済成長等々、どれをとっても右肩上がり。未来はとてつもなく明るく、日本という国が誇らしかった。万博へ行くため初めて新幹線に乗った私は、蝶ネクタイ・半ズボン姿で写真に収まっていた。となりには、リボン・革靴・ワンピース姿の2歳年下の妹がいた。新幹線で行く万博のための正装である。父の故郷である姫路帰省は格下げになった。
東京に向かうのが「上り」で、東京から出発するのは「下り」と呼ぶことを当時知った。どうやら東京は高い位置にあるらしかった。しかし、東京に住んでいる小学4年生にとって、万博のある大阪に行くのは、圧倒的に「上り」のイメージだった。そうでなければ、正装はしない。
当時万博は漠然と大阪だと思っていた私にとっては、父が作った夢の超特急で行く、明るい未来へ続く「上り」の終点が万博なのである。よって、未来は大阪からやって来るものであり、その未来へとつなぐのは超特急であり、インフラは三菱(未来館)によって作られるものだと思った。子供ゴコロに忘れることの出来ない大きな印象を残したのだった。
万博以後、小学6年から高校生までの間、父の再度の転勤で西宮で暮らすことになったが、その間に東京に向かう列車が「上り」だというイメージは私にも定着してしまった。大阪の人口は横浜に抜かれ、大学生が全国から首都圏に集まった。私もその一人。若者が集まり、ニュースに溢れていた東京は、活気とお金のニオイがした。代々木公園のタケノコ族と六本木のディスコが拍車をかけた。
2008年、今度は自分の転勤で大阪の支社で勤務している。残念ながら本社や広報機能を東京に移す企業も多く、景気後退もあり活気は感じられない。しかし、未来は大阪から作られるはずであると未だに信じている。勝手にやって来ないなら、私達が作ろうじゃないか。子供の頃に得た経験は、いくつになっても絶対に忘れないのだ。 (にしやん)
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「にしやん」さんはokkunの会社の同僚で、「わたしと万博(43)」に古河パビリオンの思い出を書いた蟇田君とは同僚かつ小学校が西宮で同じ。僕らの世代は父親の仕事を通じて万博を仰ぎ見ていた人も多かったようです。上の写真はokkunが1973年に姫路駅で撮った「0系」ひかり号。この型は1964年から1985年まで21年間もモデルチェンジされずに製造され続けた名車。いよいよ今年、山陽新幹線で営業運転から退役します。新幹線の車両は高速で走行距離をどんどん稼いでしまうため、通勤電車などよりも寿命が短く15-25年程度しかもちません。写真下はイサムノグチの噴水を背景に。右がにしやん。 (okkun)
コメント
子どもの頃 出来たばかりの頃 新幹線の食堂車に連れて行ってもらった記憶があります カレーライス¥800 勿論 ライスとルーは別に出てきました あの 食堂車は どっかに残ってませんか?^_^;