市民委員から見た万博展(館報より) 3/4

画像

前回からつづく)

「わたしと」の部分が描けたか
「千里ニュータウン」というテーマと「大阪万博」というテーマを比較した時に、どちらが集客力があるだろうか?日本初の大規模ニュータウンと、アジア初・世界最大の万博。地元にとってはいずれも「大事件」であったことは間違いないが、地元以外への広がりを考えれば、圧倒的に後者に分があるように思われる。そもそも「大阪万博」などという呼称は、のちの「つくば科学博」「愛・地球博」などと区別するために後からついた通称であって、長い間「万博」と言えば「EXPO’70」でしかなかった。日本の全人口の約半分、6400万人という来場者記録はいまだに破られていない。2005年の「愛・地球博」や2010年に控えた上海万博を契機に、大阪万博に再び注目が集まり、関連本の出版も続いていた。唯一のモニュメントとして残った感のある岡本太郎氏の「太陽の塔」と対をなすと言われる幻の大壁画「明日の神話」が2003年にメキシコで再発見されたことも、ブームを押し上げていた。37年前のたった半年間の出来事であったが、当時生まれていなかった世代にも、万博人気は広がっていた。

しかしそれだけに「吹田市立博物館で」「市民企画として」行う企画としては、ユニークさを失う心配があった。千里ニュータウンは、それを取り上げるだけでユニークであり「地元ならではの濃厚さ」が打ち出せたが、万博を取り上げることは、ただのブーム便乗と思われない「何か」を加える必要があった。

そこで考え出されたテーマが『わたしと万博』であった。ヒントは小山館長が「当時の話を始めると、皆止まらなくなる」と言ったことにあった。万博自体の記録は関連本やネット上でも見られるが、その「大騒ぎ」を地元の人間がどう受け止めたか?誰もが「自分の濃厚な物語」を持っている。その「濃さ」をこそ地元ならではの情報発信に盛り込みたいと考えた。ヒアリングを始めると、当時地元にいた人間は、決して「見ていただけ」ではなく、多くの人が仕事で関わっていたり、会場内でバイトしていたり、日本中の親戚が自宅に泊まりに来たり、職業選択のきっかけを掴んだり、大騒ぎの渦に巻き込まれながら、明らかに「深く参加していた」。しかも万博終了後もその巨大な空間は37年間近くに存在し続け、若い世代にとっても親しみのある隣人であり続けた。

会場の中心にあったのが「お祭り広場」であったように、万博は巨大な「お祭り」であり、決して行儀よく鑑賞するものではなかった。そのシッチャカメッチャカの中心にいたのが吹田市民だった。だから皆、頭ではなく体で覚えているのだ。その興奮を「解説」しても仕方がない。あのシッチャカメッチャカ感を、少しでも博物館に再現すること。それこそが、当時生まれていなかった世代にも「万博」を感じてもらうことではないかと考えた。世界最大のイベントの興奮を再現することなど到底無茶な企てではあるのだが、無茶を承知でやることが1970年の面白さではなかったのだろうか。

このため、参加型のイベントを数多く企画することはもちろん、ブログでは「わたしと万博」を物語るエピソードと、自分と会場が映っているスナップ写真の収集を開会に先がけて行った。誰もが「話し出すと止まらない」のなら、そのエネルギーをそのまま展示に移し変えたかったのだ。

多くの証言が、全国から集まった。そこでわかったことは「万博を何歳で通過したか」と「その時どこにいたか」によって、「万博体験」はくっきりと違うということだ。時代を切り取る巨大な共通体験であったからこそ、それは「戦争」や「震災」と同じように、はっきりとした「記憶の焼印」をその人の中に残す。戦前派・戦中派・戦後派が実はほんの数歳の違いでしかないように、とくに成人までの年齢では、万博の受け止め方は数歳で大きく異なっていた。乱暴に整理すると、次のようになる。

画像

つまり最も無批判に万博の洗礼をシャワーのごとく浴びたのは、当時小学校高学年から高校で(2007年現在47~54歳)、近くにいたために何度も会場に通えたグループに集中していた。1970年は70年安保の年であり、1968~69年に全国で吹き荒れた「大学紛争」は苛烈をきわめたものであったから(1969年春はついに東大では入試が行えなかった)、当時の大学生は「万博は安保への目くらましである」と批判的な空気も強かったようだ。「ようだ」というのは私自身が「無我夢中世代」に属していて、高校生のいとこと閉場時間まで会場を走り回った記憶しかなく、そのすぐ上の世代の態度がまったく逆であったことなど、想像もつかなかったからだ。この通過年齢による態度の対照は、とくに地元で強く出たのではないだろうか。

この「カルト性」こそが、万博をテーマにするときの最大の可能性であり、限界であった。誰もが「三丁目の夕日」的体験を共有できた1960年代の高度成長とは異なり、すでに1970年には「乗れる人、乗れない人」の分解は始まっていたのかもしれない。

ひるがえって、わが市民委員会のメンバーを見ると、中心は60歳以上のリタイヤ層であり、万博当時はすでに「大人として」受容した世代であった。「辛抱と長蛇」は、大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」をマスコミがもじって混雑ぶりを揶揄したものだが、観客の実感をよくとらえていたので現在もグーグルに入れると多くの件数がヒットする。一方で現在の40代前半以下にとっては、大阪万博は「想像の世界」であり、いきおい「シッチャカメッチャカのリアリティある再現」は、間に挟まれた数少ない「無我夢中世代」に集中した観がある。千里ニュータウン展では題材が継続的に存在する生活の場であり、実感を持てるか、持てないかに世代は強く関係しなかったが、万博は強烈ではあったけれどやはり半年間の出来事だった。このため「わたしと万博」のエピソード収集は終了後37年間のことでもいいと幅を広げる努力を行ったし、多くの万博年表が1970年で終わるのに対し、この万博展用の年表は2007年までずっと繋げることを意識したが、やはり「万博」と「万博公園」は、まとめて捉えるには範囲が大きすぎた。

とは言え、毎秋万博公園で行われる「マニアエキスポ」は当時を知らない若い世代を多数集め、しかもその数はここ数年急増しているのだから、その切り口には大いに学ぶ点があるだろう。(「マニアエキスポ」はマニア以外への客層拡大を図っており、キーマンの白井達郎氏は万博展にもアドバイザーとして参加している。)

(つづく)

(by okkun)

コメント

タイトルとURLをコピーしました