鞆の浦と邪馬台国

鞆の浦の一部2ヘクタールを埋め立て、港を横切る橋を架けるという計画を差し止める広島地裁の判決が出た。理由は歴史的景観侵害、「歴史的、文化的価値を有し、国民の財産というべき公益。景観利益は法律上の保護に値する」というのが主な判決理由で、マスコミは画期的判決だという。埋め立てをするためには国交省の許可が必要で、公共事業見直しを掲げる新政府の壁が立ちはだかる。それにしてもハコモノより中身、時代の風が変わってきたことを感じる。

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画像私は鞆の浦については特別の思いがある。1999(平成11)年、香川県高松市で「投馬国は詫間か? -邪馬台国の謎を追う-」というシンポジウムをやったからだ。『魏志倭人伝』には、対馬、壱岐をへてマツラに上陸して、伊都-奴-不弥国まで歩いたあと、南の対馬に向かって舟にのり(水行)20日(急に距離が時間にかわるのがコンランのもと)、さらに女王の都まで水行10日、陸行1ヶ月を要すと書いてある。それまでの研究(例えば、岩波文庫の注)は連想ゲームのようで、九州説なら薩摩(投馬は殺馬の書き違え)、畿内説だと太平洋まわりなら土佐(「ト」があってる)、日本海まわりなら出雲(イツモ。何となく発音が似てる、有力な考古学遺跡がある)。本命の瀬戸内海をいったとすると鞆(トモ、この地域には有力考古学遺跡が多い)、詫間(タクマ、弥生時代の高地性集落がある)。実は邪馬台国については論争がかまびすしく、候補地は(よくフォローしてないが)、もっとあがっているはずだ。そのシンポは地域振興のために香川県でやったこと、畿内説よりであること、それにもまして故郷なので、私はタクマ説をとったが、本命は鞆ではないかとおもって(恐れて)いた。まー、こう書くと、曲学阿世の徒といわれてもしかたがないのだが、タイトルはキャッチコピー、実質は弥生時代考古学の(当時の)現状と生活の復元(ヒミコをイメージしたファッションショーをやった)からいいんじゃないか。2000人近い大入だったし。当時最前線で活躍中の佐原先生は埴原先生も参加していた。(四国新聞のHPには、この歴史的シンポジウムの記録が残っています→こちら。ちなみにポスターは安芸早穂子画)。

つまり、鞆の浦はヒミコの時代からすでに大陸へつながる海上交通の要所だった可能性があり、万葉集には大伴旅人が歌を詠み、中世になると文書や寺院、仏像、そして近世瀬戸内海交通の港湾施設(常夜灯、船番所、雁木など)と町並みが残る文化遺産の地なのである。

鞆の浦は新幹線としまなみ街道への高速道路という現代の交通網からとりのこされてしまっている。なつかしい里山と里海にかこまれた古い家並みと狭い道のまちを(だから「崖の上のポニョ」の発想が生まれたというのだけど)、もっと便利な現代的街にしたいという街の人たちの気持ちもわかる。しかし、それをやって、かえって寂れていった街の例も多い。観光地として生きるならいろいろ工夫はできると思う。今回の判決が全国発信されたことも大いに利用するのも一つの手ではないだろうか。

(カンチョー)

コメント

  1. こぼら より:

    シンポジウムの前にファッションショーがあって、そのコーディネータはイラストレーターのさかいひろこさんでした。縄文と弥生が交錯、最後に迫力たっぷりの卑弥呼さまも登場して、観客をあっといわせたのでありました

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