高樋 拾遺: 先端科学としての水

飛鳥に行って「水落遺跡」をみてきました。中大兄皇子が斉明4年(660)につくった漏刻(水時計)の跡といわれているものです。しっかりした石組みがあり、出土品からみると、贅をこらした建物だったらしい。その中央に、いくつかの水槽を段状にならべ、最下段の槽に箭を浮かべ、上の槽からサイフォン管を通って水が滴って箭を押し上げる、その高さで時間を計る装置です。水槽を何段も重ねるのは、水圧を安定させるためで、当時の中国の技術を移入したものでしょう。

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          (奈良文化財研究所HPより)

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          (奈良文化財研究所明日香資料館倶楽部HPより)

水田稲作のために平野に進出した古墳時代は、まず、あばれ川をコントロ-ルするために、排水溝をつくって干拓、配水路で適切に田に水をひく大土木工事をおこなったことが難波堀江や茨田堤の記録からわかります。そして、堀割は運河として、人や産物の輸送に大きな役割を果たすようになります。そんな国家的事業の行き着く先が「水をつかって正確に時を知る」水時計だったのです。そう考えると、水の科学は当時の最先端にあったことがわかります。

高樋のはなしは孝徳天皇の時とありますから、時期としても時代の風潮としてもちょうど合っているのです。垂水氏が当時の先端技術者集団であったことを誇るためのものだったのではないでしょうか。何だか東大阪の人工衛星みたいだけど。

(カンチョー)

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