上野千鶴子さんがこの特別展を見るとどんなコメントをするだろうかとふと思った。陳列品のリストをながめていると、女性の影がほとんど見えないからだ。抹茶茶碗がそうかもと考えたが、茶道への女性参加は明治に入ってのことらしい。なんたる男尊女卑とのたまうだろうか。江戸時代は女性に多大なストレスがかかっていたことは、男性に比べて平均寿命が著しく短かったことからも明らかである。(cf.表 15歳以上の平均死亡年齢の時代的変遷)
もっとも、女性に負担が大きかったのは日本に限ったことではなく、世界の伝統社会に共通していることだ。民族学ではキンシップ(親族組織)研究が大きな位置を占めているが、北欧のフェミニスト系の学者が「キンシップとは女性と若者の搾取システムにほかならない」といきまくのを聞いてうろたえた覚えがある。
しかし、女性は虐げられていたばかりとはいえない、日常生活は女が握っていた。社会的責任は男が取り、生活組織の運営は女がやることが人類の知恵だったのかもしれない。わたしが、1970年代末からアボリジニ社会の調査をして経験したのは、教科書にある記述は「男の学者が男の長老から聞き取りをした」タテマエ論で、女性学者が入るようになって社会が全く違って見えるようになったことである。
たとえば、成人式の儀式には女性は参加できないのだが、食事を用意し、子供たちを待機させるなど、タイミングをあわせて進める実際の仕事は女たちがやる。だから、女たちは秘密のはずの神聖な唄を実はすべて諳んじていて「アー、また間違った、あの人はいつもそうなのよねー」などと笑っていたというのである。
封建主制が高度に発達した日本では「家」が社会組織の軸であった(ドイツのダス・ハウス、フランスのラ・メゾンと同じだと梅棹さんは言っている)。子を産み、育て、教養を持たせることによって家の品格を保ち、継続させること、これが江戸時代のオカミ、オクガタなどとよばれた(大家の)女性たちの任務であり、矜持であったと思う。
しかし、女三界に家なしなどと言われながら、彼女らに楽しみがなかったのかと言えばそうではない、田邊聖子著『姥ざかり花の旅笠』で生き生きと九州から江戸までのたび絵お楽しむ、引退した女性の姿を描き出している。この展示の裏側にある、そんな女性の世界があったことをぜひ感じていただきたいと思う。
(カンチョー)
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