地域の歴史シリーズ 吹田操車場を語る

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12月6日午後、博物館講座室で「模型と画像で歴史を語る研究会」主催で元国鉄で車掌を27年間お勤めになった坂本衛さんが「吹田操車場を語る」と題して講演なさいました。

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・大正3年(1914年)第一次世界大戦による軍需景気で国鉄(当時鉄道省)の旅客・貨物の輸送量が増大
・大阪駅で扱っていた貨物を分離して梅田駅を貨物専用用地として独立させた。
・これに先立ち、貨物操車場用地として吹田に白羽の矢が立ち、大正8年(1919年)に着工。吹田町・岸部村・味舌(ました)村・千里(ちさと)村・三宅村の1町4村にまたがるエリアに操車場が作られ大正12年6月に業務を始めた。
・その後も貨物量が増加したため第二期工事が昭和3年(1928年)に完成し、発着線の整備・駅別ハンプヤードの新設がなされ、総面積は64.5haに拡大した。
・この年(昭和3年)10月に大阪駅の高架化工事にともない、仮の客車操車場が吹田操車場内に設けられ、宮原客車操車場(新大阪)が完成する昭和8年(1933年)までの5年間この設備が利用された。

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・昭和6年(1936年)の満州事変から日中戦争・太平洋戦争とつづく戦時大勢の中、下りハンプヤードの増設など操車場の能力増強計画がなされ、昭和18年(1943年)に完成した。その結果、吹田操車場は1日8000両の貨車取り扱い能力を持つ東洋一の操車場となった。
・吹田操車場は昼夜を分かたぬ24時間フル稼働、夜は投光器でこうこうと照らし出された構内はまさに不夜城だった。騒音も激しく、沿線住民からは「蒸気機関車からの煤煙で洗濯物が黒くなる」などの苦情も寄せられた。
・しかし昭和59年(1984年)廃止に追い込まれた。それは昭和39年(1964年)名神高速道路が開通して以来、高速道路網の整備がもたらしたものだった。吹田操車場跡地はその面積が広大すぎたことと、バブル崩壊の影響もあり今日までそのままの残されてきた。

これからどのように開発するかの議論が表にでてきますが、吹田操車場は千里ニュータウンとともに吹田の現代史の記念物として語り継がねばならないものなのです。講座室には吹田操車場跡地の模型が持ち込まれ、「森にした場合」「建物がたくさん建った場合」など目で確かめることもおこなわれました。

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吹田操車場で見られた貨車の模型が会場を走り回っていました。さすがNPO法人「模型と画像で歴史を語る研究会」主催の講座だったと感心しました。

(おーぼら)

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