わたしと万博(9-1)…民放はじめての共同中継

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在阪のテレビ局を引退して十余年、得意の絵に専念して、今は画家として活躍されているKさん(K画伯とお呼びすべきか)宅に、話を聞きに押しかけました。3回に分けてお届けします。

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万博当時は、入社して約十年、働き盛りの35歳。まだパビリオンが建設中のうちから、会場内に記者クラブがつくられ、閉会するまでほとんど会社には行かず、ずっとそこに詰めていたそうです。毎日、パビリオンができあがっていくようすは、「毒キノコがにょきにょき出てくるような感じやったわ」。

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シロウトの8ミリでもみんな興奮するんだから、プロの映像があれば、と誰でも思うのですが、1970年頃というのは、まだVTRのフィルムが高く、さすがのテレビ局でも使いまわしていたのだそうです(皆様の受信料で成り立っている、どこぞの公共放送は別だろうけど)。ですから残念ながら、この当時の番組VTRはほとんど残っていないのです。では、どんな番組をやっていたのか、知る方法は・・・驚くべきは、このKさん宅に、万博関連番組の台本が残されていました。さすがにガリ版からは一歩すすんでいますが、まだ文字はまだ手書きです。ふと目にしたのが、わざわざ<カラー多元中継>と冠がついている台本。えっ、放送時間は3月14日の午前10時半~午後1時半。そうか、開会式をまるまる放送しているんだ!こういう番組が成り立つほどに、万博が注目されていたのですね。

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Kさんによると、この民放がすべて同じ映像をながす「民放共同中継」というのは、万博の開会式で初めておこなわれたことで、画期的だったそうです。Kさんは所属する局の代表として奔走されました。例の台本には中継車の位置や担当が書き込まれて、現場の緊張感が漂っています。Kさんの話には、ほとんどNHKのことが出てこないのですが、おそらく、さまざまな制約で苦しんでいた民放がNHKに対抗するためにとった苦肉の策だったのでしょうね。これ以降、大きな事件がある時に、しばしばおこなわれたそうです。

(聞き書き・こぼら)

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