片寄俊秀先生講演抄録(3/26実施)

3月26日(土)片寄俊秀先生の講演の内容をまとめました。

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「アフリカ、万博、千里ニュータウン」というタイトルでサブタイトルは「梅棹さんとの幸せな出会い」

●梅棹さんは知的生産物である文献整理の達人だった。調べてみると、私(片寄)の本に書いてもらった「あとがき」のようなものまで、きちっとリスト化されている。梅棹忠夫著作目録に「ブワナ・トシの歌」やシンポジウムなど数回「片寄俊秀」の名前が見られる。

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私は1956年京都大学工学部建築学科に入学した。師匠が西山夘三さんでその後、仲人もしていただいた。タンガニーカ(現在のタンザニア)でチンパンジーの研究をなさった今西錦司さん、そして梅棹さんという三人の大師匠にお世話になった。これらの大師匠を「先生」ではなく「さん」で呼ぶのが京都大学の伝統だった。

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西山夘三さんは(大邸宅ではなく)庶民住宅の研究家でフィールドワークを重視した。西山さんの下で福岡市石堂川水上部落で地域の人と話をしながら地区改良計画を作った。
今回の災害よりひどかった太平洋戦争が終わったわずか5ヵ月後、まだ日本で数百万戸が不足していた1946年1月に西山さんは住宅建設の構想を発表した。今回の地震、津波、原発災害を西山さんならどのように対処なさるのかと考えてしまう。今こそ研究者の力量が問われる。

防災まちづくりについて
災害には台風、大雨、地震などの「素因」があるが、人のいないところでは災害にはならない。災害たらしめる「必須要因」と大災害にする「拡大要因」がますます増えている。

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「素因」はなくすことはできない。「必須要因」をなくし、「拡大要因」をなくすことを考えねばならない。拡大要因とは原発列島、乱開発、森林保全の放棄、過密・過疎、地下街、高層ビルなどであり、この拡大要因がますます増大している。これらを研究するのが我々の分野だ。

大阪ドーム近くに、1854年大阪を襲った大津波の被害と教訓を書きしるした安政津波記念碑がある。この碑に毎年墨をいれることで津波の教訓を忘れないようにしている。

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防災とはコンクリートで固めてできるものではなく、住民がこのまちを守ろうと思える「いいまちをつくること」だ。それが最強の「防災」になる。町の歴史伝統を自然の魅力と猛威といかに共存するかがポイントで、ソフトとハードのタクミな組み合わせによる「しのぎ」のシステムの構築です。

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神崎川のほとりで2003年から全国の商店街を結んで防災朝市昼市をしてる。この組織がいま、東日本震災後のいま、動きはじめてる。全国の商店街から山形県酒田市に物資を集めて被災地(南三陸町)に運ぶことが始まっています。

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今西錦司さんとアフリカの話
大学院2年のとき、近所の銭湯で当時京都大学助手の先輩西川幸治さん(京都大学名誉教授、滋賀県立大学元学長)から今西さんがアフリカに行くという情報を得た。1961年10月アフリカに行くことになった。目的はチンパンジーに餌づけすることだったが私は研究拠点として積水ハウスから寄贈されたプレハブをアフリカに建てる設営部隊として参加した。(※1960年3月積水化学工業株式会社にハウス事業部を設置/同4月セキスイハウスA型(平屋建)発表)

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ダルエスサラームから鉄道でタンガニーカ湖のほとりまで資材を運ぶ。その運送担当だった。当時アフリカと言えば「暗黒大陸」のイメージ。日本では実情は全然知られていなかった。未開の村を想像して行ってみたら都会はびっくりするようなモダンで整然とした都市だった。セメントが現地では入手できないかもしれないと、日本から大変な準備をして全部運んだら、なんと現地はセメントの原材料の石灰岩の産地だった。しかもセメントは水に濡れると固まってしまう。そんな失敗もあった。

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湖畔の小さなカラゴ村を基地にした。私はプレハブハウスを建てるのが仕事だった。22㎡の「セキスイハウスA型」と、大和ハウスから提供してもらった小さな「ミゼットハウス」を建てた。返事はいいが、動かない現地の若者をどなりちらしながらやがて棟上式ができた。発電機も設置した。

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ブワナ・トシの歌
「ウベシ、ウベシ(急げ、急げ)」と手伝いの村人の尻をたたく俊(秀)さんを「うるさい、いやな奴だ」と親愛をこめて歌ったのが「ブワナ・トシ(トシだんな)の歌」、オリジナル の村人の歌をテープで聞かせてもらいました。いきいきした旋律をつやのある朗々とした声でうたってました。(※日本語の解説は片寄さんの声)


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梅棹さん
アフリカの話を本にするため原稿を見てもらおうと論客の梅棹さん(大阪市大助教授)と出会うことをねらってた。そし て原稿を渡すことができた。しばらくして手紙が届き、そこには仮名タイプで「コレデハホンニナラナイ」と 書かれてあった。ショックだった。しばらくして自宅に招かれ、文章を徹底的に修正された。この本はやがて渥美清主演の映画にもなったが、内容は本とは全然違うものだ。

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梅棹さんは今西錦司さんの追悼文に「今西さんが自分の論文を原形をとどめないほど修正してくれたことがたびたびあった。このおかげで自分は文章を書けるようになった」と書かれている。その梅棹さんが自分(片寄)の文章を直してくれたのだった。さらに自分(片寄)は関西学院教授時代に(現・鳥取環境大学教授)Nさんの博士論文に「書きなおしや」と言い全面書きなおしたことがある。そのNさんは現在、学生に同じようなことをしているのです。今西→梅棹→片寄→N→学生と文章の修正技術が伝わってる。

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●大学卒業後、大阪府企業局の技師となった。1962年から70年まで勤め、千里ニュータウンの開発に関係した。全体計画、バスの運行、居住者の苦情の聞き役までやった。

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主として宅地造成の設計をした。山あらば削る、谷あらば埋める。なぜ山を削るのかと聞かれれば「そこに山があるからだ」。まちができてから生じるあらゆる問題に対処した。そうやって造成して造ったニュータウンも半世紀がたち、今ではそこで育った「ニュータウン原住民」のような人も出てきているようだ。

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●その間に万博の話が出てきた。梅棹さんの発案で太陽の塔の地下に世界の民俗資料を集めることになり世界民族資料調査収集団に入った。東アフリカ担当予定だった東京大学の人が大学紛争で行けなくなった。そこで梅棹さんに「誰かお忘れではありませんか?」と売り込んだら行ける ようになった。

民俗資料をもとめて16か国まわった。ザンビアの博物館の展示物を「売ってくれ」と言ったらすぐに売ってくれたこともあった。現地の道具を入手すするには、新品をお店で買って使い込んだ古い道具と交換してくれ…という取引もやった。こちらは古いほうがありがたいし、あちらは新しいほうがありがたい。それらを(船だと盗まれそうだったので)伊丹空港に空輸した。

ダルエスサラームの博物館で太陽の塔にそっくりな1930年代の神像を見つけた。その写真を岡本太郎さんに見せると40年も昔の作品を見て「真似しやがった 」と言った。

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●1970年から長崎に移った。
私は奈良育ち。修士論文は観光だった。長崎と観光を考えると風景と原爆をセットにしなければならない。両者は哲学精神的にはギャップがあるテーマなのだが「このまちをここまで建て直した人間の努力、智恵こそ観光資源だ」と気づいた。江戸時代の石橋をみつけた。これを埋めて高速道路を作るべき」論がでてきたので反対した。このほかにも大規模開発プロジェクトの波が長崎に押し寄せてきた。いわく長崎外港工業地帯建設、空港拡張とコンコルド誘致、九州横断道路、長崎新幹線、上海航路、長崎外・内環状高速道路、南部地区総合開発=諫早湾大干拓、石炭火力発電所、コールセンター、むつ基地、原発、LPG基地、タンカー備蓄、海上貯油基地、都市再開発、土地区画整理、港湾再開発etcこれらを整合させた県総合開発計画。その根本の「ゴールデン・トライアングル構想」etc
眼鏡橋をはじめとする長崎市内の石橋群は1982年の大水害で激しく損壊し、治水の邪魔になると撤去する案も出たがそれは地域の「心のよりどころ」になる風景だからなくしてはいけない。治水と景観保存を両立する方法を考え、提案した。こんにち石橋群は再構築され、美しい姿を見せている。

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上海万博は日本万博とよく似てる。ただ一つ違うことは「太陽の塔がない」こと。川を挟んだ会場設計はよかった。上海じゅうをまちにしてる。これは危険だ。

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西山夘三さん、今西錦司さん、そして梅棹忠夫さんという三人の大師匠にお世話になった片寄さんの半生を一時間余りで語ってくださり、ご自身のテーマである「防災のまちづくり」は今回の地震、津波、原発災害の三重苦に対するヒントもお話になりました。

(おーぼら 団塊の婆 ようちゃん 長江 okkun)

コメント

  1. てつ より:

    ラジオ大阪で 毎週水曜 午後11時からやってる
    「みんぱくラジオ」今週水曜は 梅棹展のお話でした
    毎週楽しく聞いていますよ

      http://www.minpaku.ac.jp/staff/radio.html

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