5月22日「延喜式を読む-古代摂津国の産業-」の講義ノート(2)

攝津国のふしぎ

画像摂津はちょっと変わった国だ。まずは名前、は「治める」、は「港」、直訳すれば「港湾局」。日本の地名は河内、和泉、山城など地形や、植物など自然物にちなむ名が多いのに。そういえば中心である難波宮周辺の境界線は直線で、まるでアメリカやオーストラリアの地図を見ているようだ。しいて同じものをさがせば、京と太宰府だろう。これらに共通するのは、伝統的でないこと、つまり時代に必要とされる機能をもち、国が大規模工事をおこなって強引につくった(都市的)施設だった。

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港という異界
なぜそうなのか?それは攝津が、当時の国際海上交易のターミナルであり、その繁栄ぶりは弥生ー古墳ー飛鳥・奈良時代へと右肩上がり状態にあり、しかも人口の多い(都に近い)難波へと集中していったからであろう。

経済人類学では国際港の特異性をつぎのように指摘している。1.港の区域は政治や生活の場所から孤立した状態におかれる。2.複数の言語がはなされ、3.異なる国の人や物品がい入り乱れている、物品税をかけない。

国際交易は文化や財のとりこみ口であるという利点を持つ一方、軍事的侵略や伝染病の蔓延などの危険性をはらむ。これは今日でも同じで、豚インフルエンザ時のさわぎや厳しい麻薬取り締まり、さらには米軍基地の問題にもつながっている。

都と国際港
であれば、都と国際港の距離の問題はひじょうに興味深い。難波は「宮」として応神紀にはじめてあらわれ、仁徳、継体、孝徳、天武紀にも書かれている。その間、「宮」は飛鳥や近江にもおかれていた。もし、「宮」が天皇の住む、政治の中心地であるとすれば、外国との接触が利となる時、脅威となる時の宮のあり方は、白村江の敗戦のあと港から最も遠い近江に遷都されたように、国際情勢(安定と不安定)を如実に反映していると考えらるからである。

参考文献
小山修三 2000 『縄文時代の商人たち ―日本列島と北東アジアを交易した人びと―』 洋泉社

(カンチョー)

コメント

  1. 団塊の婆 より:

    小中学校で地域の歴史を教わっていない私は、摂津の国と言うと摂津市を中心とした地域と思い込んでいました。そして10年ほど前まで特に知ろうとすることもなく、過ごしていました。
    今改めて地図を見ると、摂津の国のほとんどが兵庫県ではありませんか…う~ん…
    教育の在り方まで考えさせられます。

    また、昔の村・部落の名は地域の特性を表し、その地域の歴史を感じ取ることができますよね。
    しかるに今の住居表示は…味もそっけもない、全国金太郎飴。悲しいですね。

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