5月22日「延喜式を読む-古代摂津国の産業-」の講義ノート (4)

摂津の国の人口とその出自

約3000年前(弥生時代のはじまり)から「続々と新しい文物が入ってきて、日本列島の景観を変え、今日の日本社会が形成されていった」と前のノートに書きました。モノの研究は考古学の依って立つところで、その時代的、地域的分布については非常にこまかく事実が蓄積されています。しかし、作物にしろ、金属器にしろ、焼き物にしろ、モノには人がつきものです。今日ではモノや知識はインターネットで簡単に買うことが出来ますが、古代はそうはいかなかった。「人を招く」、「留学して学ぶ」という手が考えられますが、それは中央集権化が進んでからのこと、ふつうはモノをつくる人そのものが移って来たと考えるのがもっとも現実的でしょう。それを如実に示すのが日本列島の飛躍的な人口の増え方です。

画像人口の増加
私は1976年に縄文時代の人口を推算しました。(基準一つとしたのが沢田吾一「延喜式」がら算出した奈良時代の人口でした)。詳しい手順の説明は別として(これはこれで別に講演が必要になるから)結果だけを述べますと、
北海道、沖縄を除く日本列島の人口は3000年前が7.5万、200年前(弥生の中頃)が59万、1000年前(延喜式の頃)には540万と急激に伸びているのです。これに注目して、埴原和郎先生が、これほどの伸び率は自然増加ではなく、大陸から大量の移民があっためであるとし、日本列島における新モンゴロイド(弥生型)と旧モンゴロイド(縄文型)の分布や時代の差が論じられるようになったのです。

新大陸としての日本
この時代中国では戦乱が続き、「蓬莱の島」と秦の始皇帝が憧れたように、日本列島は大陸で迫害された人々の新大陸だったようです。とくに、西日本は縄文時代の人口が少なかったので、移住に際してトラブルが少なかったのだと思います。ターミナル港であった摂津国は、そのように移住民が在地人と長い年月のうちに混血し、新しい知識と技術を取り入れながら産業を興し、古代日本の強力な一地域に育っていったのです。
 『新撰姓氏録』(弘仁5、814年)は奈良時代の末頃、乱れてきた氏族の秩序を正すためにつくられたもの。氏族は神、皇、蕃の3種に分類され、神と皇は在来、蕃は中国、朝鮮の氏族を祖とすると書かれています。興味深いのは、その比率で右京と摂津がそれぞれ45%、42%という高い比率を占めています。これが摂津国の産業のあり方に大きな影響をあたえているのです。

参考文献
Koyama, S. 1978 Jomon Subsistence and Popuilation. Senri Ethnological Studies, 2: 1-65.
Hanihara.K., 1991 Dual structure model for the population history of the Japanese. Japan Review, 2:1-33.
鬼頭 宏 1983 『日本二千年の人口史』, PHP研究所.
小山修三 1984 『縄文時代:コンピュータ考古学による復元』, 中央公論社.

(カンチョー)

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