館長ノート No.2

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-千里ニュータウンの構想-

第二次世界大戦は日本に大きな傷跡をのこしました。多くの町で、家が空襲によって焼き払われたため、住宅事情は深刻でした。しかし、朝鮮戦争(1950)をきっかけに、日本経済は奇跡といわれるほどの回復をみせはじめました。それにともない、都市への人口流入がはげしくなります。このころ、大阪では年間20万人と書かれています。1955年、政府は日本住宅公団をつくり、団地による大量の住宅供給をはかります。大阪府も、それに呼応して、1956年から千里ニュータウンを(ひそかに)計画しました。

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戦後の住宅は、江戸時代的「長屋」、焼け跡にたった「バラック」が主なものでした。6畳一間に5人の家族、トイレ、台所は共有、風呂はなく銭湯、というのがごくふつうの人々の生活でした。
●神田川の世界ですな。それ以前は、小松左京さんが「6畳一間に6世帯・・・」というエノケンの唄があったといってましたが、誰かおぼえている人いませんか?
そこに、コンクリート造り中層建築が建ちならぶ、従来とはまったく違う景観があらわれるのですから、新鮮な驚きと憧れをもったのも当然といえるでしょう。そして、問題はここから始まるのです(続く)

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