(この記事は12/30の記事からの続きです)
設置申し込みから半年以上待たされて、昭和40年、ようやくわが家にも初めての電話がやってきました。
黒電話です(600型と呼ばれるタイプだったようです。黒電話でしたがその前の4号式と呼ばれるタイプに比べるとぐっとモダンな感じがしたものです→リンク)。当初、千里NTの電話は過渡的に大阪山田局に収容されていたようで、市外局番は06だったような気がします。
まもなく津雲台に千里局が開設され、市外局番は「068」になりました。「千里ニュータウン」という町が独立した性格を帯びていった頃です。(当時は豊中の旧市内も068だったようです。)市内局番は原則として、北半分には72が、南半分には71が割り振られ、そのあとの番号もこの時に一度変わったような気がします。昭和41年、私が小学校に入った頃の住所録にはほとんど全員の欄に電話番号が入っていましたから、わずか数年で「家にも電話があるのはあたりまえ」に変わったのです。高度成長期の勢いでした。
ただ、その頃は電話の急増に対応するためか「共同電話」という契約形態があって、わが家でもご近所と二戸一で一つの回線を共有する仕組みでした。番号は両戸に違う番号を振ってあるのですが、元の回線はもう一軒と同じなのです。ごくたまに、もう一軒と使いたい時が重なると受話器を上げてもうんともすんとも言わない時があり、困ったことがありました。
その数年後、昭和44年か45年、万博の開催直前には、全国からたくさんの方が千里に来られるのに備え、千里NTと大阪市内などを相互に市内通話でかけられるように、068の地域は再度06に変更されました。068-72は06-872に、068-71は06-871に変わったのです。その頃には871と872だけでは局番が足りなくなって、831や832の市内局番も使われるようになりました(千里NTの豊中市域ではこの局番が多いはずです)。万博会場は大阪山田局の受け持ちで、876や877の市内局番が割り当てられました。
ぐっと下がって平成11年、市内局番の頭に6が加わって今日に至る…というわけです。068の時代と比べると、市内通話は2桁多く押さないといけなくなりました。
数年前からは固定電話の回線数も減少に転じたようで、隔世の感があります。
(by okkun)
コメント
確かに 068 でした(^^) そして 黒電話 申し訳ありませんが 現役です 実家が・・ 私の子供 はじめ かけかたわかないと・・・
大阪山田電話局は0726-7でしたよ。
千里電話局の開局で当時の豊中市の大半と同じ068へ変更され、
万博から3年後の1973年10月に06へ変更されました
松井さん そうだったんですね いまや山田は千里ニュータウンからとても近いところですが そんな電話番号だったんですね
いやぁ それにしても 2006年の話題がまだ語れるなんで
楽しいですね~
すみません、「万博にあわせて06になった」は間違いで、おっしゃるとおり1973年に06に変わりました。ところで当家(藤白台)は1964年に入居して1965年ごろに電話がついて最初数年間は暫定的に大阪山田局でしたが06でしたよ?1965年開校の藤白台小学校の「学校概要」にも06の局番で出ています。大阪山田局も二通りあったのかなあ?
改めて調べたところ、1963年7月1日時点では吹田市全域が吹田電話局で市外局番は06、市内局番は381~382した。
豊中市新田地域や三島町(現・摂津市)の主要地方道堺布施豊中線以西(千里丘駅南側は例外あり)や大阪市東淀川区井高野も吹田電話局管轄でした。
1967年7月に吹田局から大阪豊津局(後の西吹田局)388と大阪山田局が新設、
大阪山田局は068-77になりました。
この時、豊中市は大阪三国電話局391~392管轄の庄内と吹田局管轄の新田が06で、
他は0728(現在は寝屋川MAで使用)だったのを
服部電話局の開局を機に旧0728地域のみ068へ変更、市内局番も豊中局は頭に5、服部局は頭に6が付く2桁化されています。
新田地域はこの時点では電話局が開局しなかったものの電話局開局を見越して068-31になりました。
その翌年に千里電話局が開局し豊中市域は31のまま、吹田市域は77から71・72に変更。
1973年10月に068が06へ変更され市内局番の頭に8が付きました。
この頃、大阪庄内電話局と摂津電話局が新設され、
大阪市淀川区(当時は東淀川区)三国から電話線を引いていた豊中市庄内は391~393・398から331~334へ変更、
吹田電話局から電話線を引いていた大阪市東淀川区井高野や摂津市西南部は06-381~384から06-349へ変更されています。