市長がこのブログをご覧になっているかどうかわかりませんが…?
ただいま博物館で開催中の「吹田のアルバム」展は、館企画の部分(部屋のぐるり)と市民企画の部分(部屋のセンター)からなっていますが、きのう、市民企画part1「千里ニュータウン」の最終日夕方、阪口市長が見にこられました。
ある一枚の前で足を止め、「ナツカシー!」と叫んだのが右の写真。
1964年ごろ、当時終点だった「新千里山駅」(現・南千里駅)のホームの端から、北西方向を向いて撮った写真です。千里中央線と右の津雲台はできていますが道路の左の山林は…そう、ここが現在の「竹見台」(その頃はまだ名前ついてませんでした)。
「この松の山、うちの山だったんですよ!このへんは松林で…」と市長…。
(じゃあ「竹見台」じゃなくて「松見台」にすればよかったのに…と思いましたが、千里丘陵は竹!というイメージ戦略が勝ったのでしょうか?…当時の人に聞かないとわからないですね。そう言えば千里山から初めてのバス路線ができたとき、企業局の若手であった片寄先生がバス停の名前までつけさせられ、なーんにも他に目印がなかったので「一本松」という名前をつけたらその松が枯れてしまった…という逸話もありました。「一本松」ですよ!時代劇ですね…。ちなみにあわてて植えた二代目の一本松は、南千里駅前交差点の北東角に今もあります。)
自宅は現在の市役所南千里庁舎のあたりにあったそうです。
野口昭雄さんが撮られた50年ほど前の千里山駅の写真を見ては「うちの祖父は延長前の千里山駅の最後の助役で…」と思い出しきり。(※助役というのは全部の駅にいるわけではないので、千里山終点当時は千里山に、新千里山終点当時は新千里山に、現在は北千里に配置されているようです。)
●ちなみに下の写真が同じ場所の現在。(と、急に定点観測の話になる)線路の角度がビミョーに違いますが、白線の内側でシャッター押したからです!元の写真は明らかに白線の外に出ないとこの位置関係でシャッター押せないことが現地に立つとわかりますが、当時は終点だったから危なくもなかったんでしょう。
松林は竹見台の高層住宅に変わったわけですが、その姿もホーム屋根に隠れてあまり見えません。
向かい側にもホームができたうえに北にも延長されていて、「どうしてこれが同じポイントだとわかるのか?」ですが、ヒントは架線柱にあります。この写真外、ホームの右手に、今は使われていない線路の跡があり、この線路は延長されていないので、このポイントが昔のホームの北端だったとわかり、架線柱から位置を同定できたわけです。
…という私のオタクな展示は終わり、きょうからは市民展示part2の「吹田を歩く、撮る」が始まっています!
(by okkun)
コメント
幼稚園は 一駅向こうの 「ナオミ幼稚園」まで 2年間電車通園してたんで 新千里山駅は 記憶の片隅の中にあります^_^;(幼かったので うろ覚え^_^;) 話しは変わりますが 明日 TV 午後9時からの「日曜映画劇場」 地上波初「渡辺謙 樋口可南子の「明日の記憶」 プロデューサーは 小学校5.6年 そして 中学1、3年と 同じクラスだった 野村敏哉君の作品です(^^ゞ 昨年 「千里ニュータウン展」の 例のチラシを送lたら 即 返事が来ました ぜひ 見てください いい映画です(^^ゞ その前の作品は 伊東美咲 佐藤浩市 中村トオルの「海猫」 いい作品 作ってますよぉ(^^)
ある一枚の前で足を止め、「ナツカシー!」と叫んだのが右の写真。 あれは、「八角」でした。 クーラー?。 ドやったかな。 この突き<電車の暴走止?・>の横で、さわやかな歓談したことを思い出します。 改札口を出て北10m右、 南庁舎へ行くとき・・■いもの見ます。 いまだに、橋脚かなあ・・・。 時たま、ベンチの代わり座って・・ロダン。 千里は遠く・・。 ほんまやなあ・・・・「千里」や。
記事を拝見いたしました。
記事の中にある『二代目の一本松』というのは,どこにあるのでしょうか。南千里駅前交差点北東角にはいくつもの松が植えられており,どれが二代目の一本松なのか分かりませんでした。南千里出張所の「千里花とみどりの情報センター」のところにある松が一本松なのでしょうか。
吹田市立博物館にもメールで問い合わせをしたのですが,数ヶ月待っても連絡はなく,完全に無視されてしまいました。
「はなとみどりの情報センター」が入っている「千里ニュータウンプラザ」に食い込むように植わっているのが『三代目』です。この建物に建て替える際に二代目は枯死してしまい、三代目に代わっています。
ありがとうございます。建て替えで二代目は枯死したのですね。
小さくても良いので説明看板があればいいのですが・・・。
関係者にお伝えいたします。