10/26(金)午後2時から博物館講座室で片寄俊秀先生の講演があります。
【講演レジメ】
EXPO’70と大阪のまちづくり戦略を振り返って
1 大阪が輝いていた?! 頃
2 千里ニュータウンの開発
3 EXPO’70
4 プロジェクト型およびイベント型まちづくり戦略の功罪と限界
片寄先生の略歴
大阪人間科学大学人間科学部 環境・建築デザイン学科教授
(まちづくり学)
1960京大工学部建築学科卒、同修士了。西山卯三研究室。その間
61-62京大アフリカ類人猿学術調査隊(今西錦司隊長)の設営担当。
その記録『ブワナトシの歌』(朝日新聞社63梅棹忠夫監修)は、
羽仁進監督、渥美清主演で同名映画化。
62-70大阪府企業局宅地開発部に勤務、千里・泉北ニュータウン開発事
業等に従事。宅地造成の実施設計などを担当。その間
68-69日本万国博世界民族資料収集調査団の東アフリカ担当。
この収集資料などが「国立民族学博物館」誕生に貢献。
70-96長崎総合科学大学(旧長崎造船大学)建築学科教員。
「82長崎大水害」後の再生まちづくりで奮闘。
96ー2006関西学院大学総合政策学部教授。
まちかど研究室「ほんまちラボ」を三田市内に開設。
2006年より現職。摂津市正雀商店街「コミュニティスペース」設置参加。
片寄先生のブログは、一遍一遍が内容豊かで、さらにたくさんのスケッチ画があって、楽しいです。
(おーぼら)
コメント
片寄先生のブログおんもしろいですねぇ。「ゆさんばこ」にくらくらっときてしまいました。
片寄さんはハード中心の話になるのでしょうか。私が聞きたいのは、万博会長を関西から選出できずに、大阪の勢いが地方都市へと衰退することをまったく止められなかったことについてどのように総括するかです。まだ高校生だったころの記憶では、東京オリンピク開催を間近に会長を決定する最終段階になっていました。関西が東京から遅れないように、五輪の後は万博を関西が総力を上げて、会長も関西から出すことで政府も了承していました。ところが候補者は軒並み辞退して、松下幸之助が最後の砦だったのですが、これも辞退して、関西は万事休すになり、経団連の石坂会長が「関西はふがいないな」という雰囲気で受けてくれたのです。私は当時、岡山県の田舎に住み、大阪方面に就職するとはまだ決まっていなかったと思います。大阪のふがいなさを軽蔑しました。私の聞きたいことを片寄さんにあらかじめお伝えいただければ幸いです。