市民が企画運営した千里ニュータウン展(その2)

Ⅱ 千里ニュータウン展市民委員会の活動

停滞の打開へ
学芸員は考古、歴史(古代・中世史、近世・近代史)、美術工芸、民俗の6名、年2回の展示を1人が責任を持って行うことになっていた。つまり、2年に1回は特別展を立案して実行するという過酷ともいうべき任務のためか、発想が狭くなり、運営法が硬直化して、次第に効果があがらなくなっていた。この状況を打破するためにはどうすればいいのか?
2006年度の特別展の計画案として千里ニュータウン展があった。日本で最初につくられたニュータウンという市民の誇りがある一方、老齢化にともなう衰微に対する悩みをかかえ、再生を模索しながら働く人たちがいる。それを展示できないかという考えである。
博物館では市民参画を企画し、「千里まちづくりネット」、「千里市民フォーラム」など活発な活動を行っている市民グループに協力を打診した。その結果、この際、特別展の運営を市民の手でやるのがよいという声が出た。市民が企画・運営する企画については、予算執行をはじめとする多くの問題があるのだが、行政の勇気ある決断によって、実行に踏み切ったのである。
まず『市報』を通じて千里ニュータウン展の委員募集をおこなった。「盛り上げ会」メンバーによる口コミやリクルートもあり、2005年9月4日にひらいた最初の会合に35名が参加、博物館に対する市民の期待の大きさを実感した。

市民委員会の発足
応募者は吹田市だけでなく、隣接する豊中市をはじめ他地域からもきていたが、全員を委員として委嘱することにした(市からの委嘱状をだした)。そこで、委員は無償(交通費もない)であることを説明し、了承を得たあと直ちに活動に移った。マスコミからの取材申し込みがあったが、それも妨げないオープンなシステムにすることが決められた。
委員会組織は、まず委員長、副委員長を選出。展示、催事、広報・物販の三部会をつくり、それぞれに世話役をおいた。会議は原則として月2回おこなうこと、若手(現役の勤め人)もいるので、平日は19:00から約2時間とした(越えることが多かった)。
会議の進行は、まず部会討論を行い、そのあとまとめの全体討論を行う。議事進行を円滑にするため、部会に先だって世話人会議を開くようになったが、それでも時間不足で、世話人会議を別途に開催するようになった。
博物館と会員間の連絡はメールで行うことがきめられ、メーリングリストが組まれた。通信費がかからず、迅速に情報が伝わった。メールを使わない人はファックスとしたが、その数は5分の1程度にとどまり、新しい情報の時代になったことを痛感した。

広報のちから
この展覧会が多数の観客を動員した大きな要因の一つはマスコミ効果だった。それまで、広報はポスター、チラシといういわば古典的な手法とホームページ、市報にとどまり、積極的にマスコミに近づくことはしなかった、あるいは注目されなかったのだろう。そのため新聞やテレビに取り上げられた記録はほとんどない。広報とはPR、つまりpublic relation、市民とのかかわりあい方を意味するものだが、PRに後ろ向きなのはお役所の特徴、この博物館がその弊に陥っていたことを示している。
市民委員は、「この博物館のあることさえ知らない人が多い、これでは、(私たちが)考えていること、やっていることが伝わらない」と人的関係をつかってさまざまなメディアに働きかけていった。その結果、表(千里ニュータウン展報道状況)に示すような、華やかな展開となったのである。

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(新聞) 結果を改めて分析してみると、まず新聞では、早い段階(2005年12月7日)で委員会の意義(博物館再生へ市民企画)、開幕が近づくと、ねらいと活動(60年代音楽とファッションショーなど)、開幕時には目玉展示物(お帰りミゼット)、なつかしい歴史(千里にも3丁目の夕日が)、ゴールデンウィークにはイベント活動(トンネル壁画、バスオール劇上演、サテライト)が、そして一万人突破(2006年5月13日)などの節目が、効果的なキャッチフレーズとともに報道された。
(電子メディア) ウェッブやメールなどの電子メディアが情報界に大きな力を持ち始めていることもつよく感じた。新聞記事の多くは各社のホームページに転載されるし、地方に限定して内容を特化したものも登場している。とくに日経新聞が「千里コンシエルジュ」で委員会に密着して発信を続けたことは、大きな効果を生んだようだ。かたちが多岐にわたり、内容が瞬間的に代わるような、電子情報は現在のところ把握が難しく、正確な記録がない。
(テレビ・ラジオ) テレビとラジオの効果も大きかったが、実況生中継であるABCラジオの「全力投球!妹尾を和夫です!(5月12日)、NHKラジオ第一「ここはふるさと旅するラジオはちまるちゃん」では、来館者や市民委員が登場し、放送のあと目立って来館者数が増えた。
(ローカルメディア) ミニコミ誌やケーブルテレビは、口コミに似て、地域社会での広報に貢献する。ニュースのほかに、市民が登場することのほかに、講演会やイベントの内容をくわしく放映するので貴重な記録となった。
マスコミによる情報発信の範囲は、吹田、北摂地域から、関西へ、さらに全国に着実にひろがっていった。各社の競合がおこったことで、相乗効果がでたようだ。

ブログについて
この企画を特徴づけたものとしてブログの採用を上げておきたい。ブログは普通、個人的なものとされているが、ここでは4,5人の委員が編集者となり、投稿を編集・掲載するという形になった。自然にそのように落ち着いたのである。その結果、とぎれなく情報を発信することができた。
ブログは、公式ホームページと比べると、有志が無料サービスをもちいて立ち上げたものなので、何ら制約をうけずに自由に意見を述べることができる。また、双方向性であるため情報交換がさかんになる。具体的には、ニュータウン展直前に全国放映されたNHK「あの日を抱きしめて-昭和48年」の制作部から、ブログを見た、当時を知るインフォーマントはいないかとの問い合わせがあり、紹介したという例がある。また、展示の方向性の確認、アイデア提出や検討、展示品さがし、講演、フォーラム、イベント予告および報告など、準備から展覧会オープンにいたるまでの委員会の活動プロセスをいきいきと詳細に記録するという予想外の効果も上げた。
ブログ「千里ニュータウンが博物館にやってきた」は2005年10月14日に立ち上げ、2006年6月12日にうちきった。掲載記事の総数は276、アクセス数は35,000を越えた。委員会のなかからは、この数も観客者数に入れるべきではないかという意見が出たほどである。

イベントの多様化
催事部会はイベントをふやし、多様化させることでこの展覧会をいちじるしく活性化した。
これまでの特別展や企画展では、多くとも3回の学術的な講演会を行うのが普通で、予算もそのように計上されていた。

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しかし、統計をみると、観覧者(展示場を見た人)と講座等受講者(無料で受講できる)の比率は1992~97年までは10%以下だったが、98年度から10%をこえ、その後急速に増え続けて、2005年には58%、本年2006年は69%という高率になり、それに応じて来館者数も増加している。これは、常設展が力を失っていることと、陳列品や特展のテーマについての説明や解釈を加える講演、それにもまして子ども向けもふくめたエンターテインメント性のある催しが必要であることを示している。
チラシに書かれたイベントスケジュールを見るとイベントによって博物館を楽しくし、できるだけ多くの観客を誘致しようとする意図をよみとることができる。
上段の「魅力的なイベントが盛りだくさん」として、目玉となる有名な人をならべて観客吸引をめざしたものである。
その横に、「千里を学び、千里を考える」シリーズとして、アカデミックな講演、シンポジウム、それを平易にしたかたちでのトーク、市民が参加するフォーラムが12回にわたって組まれている。
下段には「おでかけイベント・千里再発見」、「足湯イベント」、「まるごと体験・サテライト」など博物館を飛び出した催し。「音楽などお楽しみイベント」は市民の歌、踊り、演劇。「ゴールデンウィークの参加イベント」は子ども。そして「食」イベントと並び、盛りだくさんである。
食(酒類も含め)は博物館としては問題が多いのだが、これから真剣に取り組んでいかねばならないものだ。この委員会から生まれた「喫茶ミリカ」は飲食設備や休憩の場がないこの博物館の設備のあり方に一石を投じたと思う。
多様なイベントの展開は、市民の経験と社会的ネットワークが生かされて始めて可能になったもので、従来の博物館の企画ではとうてい不可能なものだった。観客が博物館に求めているのは学術的なものだけではない、楽しさや遊びの要素も必要であるというメッセージが伝わってくる。

展示に関する諸問題
(千里ニュータウンの思想と開発) 千里ニュータウンは1958年に開発が決定、60年にマスタープラン完成、61年に起工式、62年に入居を開始した、日本最初のニュータウンである。当時は時代の先端をゆき、現在は緑の多い瀟洒な町として住民の誇りは高く、現在進行形の町であるために、etic(客観的な外からの視点)と、emic(主観的な内側からの目)が詰まっている。それをどう切り取って見せるかが展示部会の仕事であった。
千里ニュータウンは、ペリーの「近隣住区論」(1929年)の理論を取り入れ、それに日本独自の研究を加え、当時の社会的制約のなかでつくりあげられたまちであった。緑ゆたかな町という点ではハワードの田園都市論(1989年)に基づいて1903年から建設がはじまったレッチワースの町が具体例として参考にされた。展示にはその思想と実行のプロセスを示さねばならない。開発前と後の環境変化も重要であると考えた。

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(生活をモノであらわす) しかし、もっとも重要なのは、ニュータウンで始まった生活様式の変化である。狭くとも閉鎖的な居住空間のなかに核家族が住むという生活形態は、日本文化の伝統ともいえる繁雑な人間関係から住民を解き放った。装置としても、水洗便所、ダイニングキッチンがそなわり、冷蔵庫、テレビなどの電化製品やインスタント食品が登場して、新しい生活様式がつくりだされた。テレビ、マンガの普及は子どもの世界に大きな影響力をもった。そういった状況をモノでどう表現するか。
ブログを見ると早々に「展示品さがし」を始めている。博物館にはこの種の収集品がほとんどなかった。電化製品がなかなか集まらず「サンヨー・ミュージアム」から、借りなければならなかった。しかし、衣装、小物、おもちゃ、レコード、書籍などはよくあつまり、持ち込みの品物が増えた。その結果、物置から引っ張り出してきたという品物が多くなり、基本的に触ってもよい「体験型」展示になったのである。
このような収集活動のなかで、ほくさんバスオールと呼ばれる簡易風呂が発掘された。台所やベランダにおくことのできる小さなもので、当時の集合住宅の三分の一には風呂がなかったので、発売されると爆発的に売れたという。なつかしがる人が多く、会期中のシンポジウムや演劇の話題に取り上げられ、展示の目玉となった。もう一つの目玉は、あの小さなミゼットである。まだ所有している人がいて、さわってもよいということでロビーに展示し、人気を呼んだ。
展示は、自然環境、ニュータウンの計画と開発、生活の変化、交通、1960~70年代の生活、子どもの世界という5セクションになった。(図録を参照のこと)
(博物館側からの視点) 監修する立場で見ていて、市民委員がもっとも苦しんだのは展示部会だった(展示ができあがったのは、一部委員が徹夜作業をした当日の朝である)。博物館の展示はモノで組み立てなければならないという特殊なひねりがある。これは、ふつう一般人が馴染んでいる写真や絵画そして文章による表現方法とはまったく異なるもので、どうしても写真、書類、パンフレットを並べ、長々しい解説文に頼る、立体感のない展示に陥りやすいのである。
また、ニュータウンという日常生活の場の表現は、美術館や歴史資料館のように、個々の作品を独立して見せるのではなく、片々たる品物が組み合わされてかもし出す効果をねらうので、いっそう作業が複雑になる。もう一つ、時代的整合性を保つために、時間軸をさだめて品物をあつめる必要がある。
展示は、まず陳列品を決定し、それを配置した見取り図(パース)を描くことが必須条件である。ところが、市民委員には世代、職業、地域による差があり、それぞれの関心も異なるので、なかなか統合見解が出せず、全体のパースが描けなかった。また、展示品は、市民の持ち込みが主体となったので、時間整合にズレが生じた。これは、本来は学芸員の仕事と言えるのだが、沸騰する議論と開幕に向けて猛烈なスピードで走り出している混沌とした状況下では、不可能だった。
学芸員のプライドは、(たとえ、コラボレーションに徹したとはいえ)美しく、陳列品のauthenticityが保証され、ミスのない展示をすることにかかっている。市民の展示は、所々にほころびがあるし、文化祭やバザーのノリになったことは認めなければならない。委員の間で「進化する展示」という合い言葉ができた。これは「会期中であっても陳列品を代えて充実させる」、「展示そのものよりプロセスを見せることが大切」という意味である。カンペキではなくとも、専門家の批判など一蹴してしまうほどに、おもしろくパワーのある展覧会になったことは、今後、市民参加型展示が一般化するならば、モデルになることは確実だと考えている。

(つづく)

●千里ニュータウン展の記録は、このブログの2005年10月2006年6月にたっぷりと…

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