市民が企画運営した千里ニュータウン展(その1)

吹田市立博物館発行の『館報』No.8が、できました。2006(平成18)年度-千里ニュータウン展をやった年です!-の活動報告が掲載されています。展覧会概要は学芸員F氏が書いておりますが、小山修三館長も「市民が企画した千里ニュータウン展」を寄稿しています。本人が承諾しておりますので、こちらのブログに転載いたします。長いので、3回に分けます(それでも長いけど)。ご一読いただければ幸いです

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市民が企画運営した千里ニュータウン展
小山修三

Ⅰ 日本における博物館:問題の背景
いま、日本の博物館は大きな転換期にさしかかっている。その主たる原因は人が集められなくなっている(支出にたいして、収入が上がらない)ことだと思う。全国統計をみると、来館者数はながく減少がつづいており、各地で縮小、廃館の動きさえ出ている。なぜ博物館はここまで追い詰められたのかをまず考えることにしたい。

国家による創設と管理
博物館という近代的装置は大英博物館(1759年に開館)に始まり、19世紀に入って社会的に定着したものである。後発の日本は、明治維新後の文明開化の時代に欧米諸国に追いつくために、国家が博物館をつくり、管理・運営を行うことにした。
国家行政による指導管理という体制は、上述した段階では非常に有効な手段であった。これは大英博物館やスミソニアンなどの博物館が、国家の大きな助成をうけているとはいえ、基本的には市民の寄贈品や寄付金によってなりたち、支えられていることと比べて大きく異なる点である。
日本最初の博物館として1872年に開館した東京博物館は計画時に二つの流れが交錯していたようだ。一つは、当時欧米で盛んだった万国博覧会で、先進技術が一目にしてわかる製品の集中展示されていることをみて、国民の教育に役立つと考え、博覧会を開いて産物を集める産業博物館とするもの、もう一つは、「秘宝」を収蔵し展示する宝物館をめざすものであった。結果的には、皇室の宝物を中心とする「帝室博物館」として現在の形に落ち着いたのである。
このような歴史をもつ日本の博物館は、効率のよい反面、弱点をかかえこむことになる。まず、国家行政による指導という体制は、博物館のあり方を画一化してしまった。その後つくられた地方博物館もほとんど同じ形になり、多様性をうばってしまったのである。
官営の弊害は、運営管理面にもあらわれている。とくに「教育」を目的としたことにより、高圧的な姿勢になったことがある。さらに、国有財産である所蔵品はかけがえのないお宝であるという考えは「モノ信仰」にまで近づき、代替可能な複製品やレプリカや民具、鉱物、動植物などの標本、土器片などの手に取って観察すべきものにまでおよんでいった。そのため、学芸員は文化財を守り、研究することが職務となり、民衆とは一線を画する位置に自らを置くようになった。そんな姿勢は、鍵つきの頑丈なケースに陳列品を閉じこめ、暗い会場の到るところに禁止札をはり巡らせて、きびしく警備するという現状に見ることができる。これは、たとえばルーブル美術館がミロのヴィナスやブリューゲルの絵を、露出して展示しているのとはずいぶん違っている。明治時代ならともかく、そんな堅苦しい場所にはたして人々がよろこんで行くだろうか?

文化行政の資金枯渇
もう一つの衰退原因は、とくに最近いちじるしい博物館に対する資金の枯渇であろう。明治以来の博物館のあり方に対する新しい動きは、いわゆるバブル経済期におこっている。第二次大戦後の急速な経済発展に支えられた豊かな社会のなかで市民からの要望や外国の新しい動きを取り入れて、博物館は多様化の方向に進んだ。潤沢な資金に支えられて、それまで手作りで行ってきた作業を業者に委託し、美しい展示をする博物館が生まれた。企業が社会還元事業として博物館や資料館、メッセ展示など例は枚挙に暇ないのだが、もっとも代表的なものは1976年に開館した国立民族学博物館であろう。その影響は、もちろん地方にも及び、新しい博物館がつぎつぎとたてられ、金のかかったぜいたくな展示をするようになった。ところが、バブルの崩壊とともに、状況は大きく変わり、予算削減のために、かつての水準を維持することさえ難しくなったのである。資金不足はとりわけ地方自治体において深刻である。
現在では、国立博物館は独立法人化され、都道府県や市町村の公立博物館は指定管理者制度を奨励されているという現状に明らかに見ることができる。今日の博物館は、自らの責任で運営管理しなければならない状態になりつつあり、その動きは将来ますます強くなることは想像に難くない。

吹田市立博物館の場合
私が館長の職に就いたのは2004年6月、この博物館は上に述べたような日本の博物館の縮図をみるようだった。何よりも深刻だったのは観客数が少ないことであった。

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2003年度の記録によると、潤沢な費用のある春・秋2回の特別展は、それぞれ1,337人、1,107人(原則として)市内のすべての3年生がやってくる小学校との連携事業(2,696人)をいれても入館者は9,007人。ほかに、講座、体験教室、館外での出前講座をおこなうといった努力にもかかわらず、来覧者総数は12,123人である。年間観覧者数は1997年以来10,000人をわりつづけるという低調さであった。
これに対しては、2002年から「博物館を考える市民会議」が開かれ、2003年8月に博物館活性化についての提言をうけるなど、批判的な市民の声があがっていた。
この逼塞状態を打開するためには、「お上主導型」の伝統ともいうべき体質を変え、欧米型の市民参加型の体制をつくらなければならないと考え、具体的な方策はないままに、「市民に開かれた博物館」をつくりたいという就任の挨拶文を書いた。
これに反応してか、市民たちが個人的に、あるいはグループで直接面会に来るようになっただけでなく、2005年春の特別展『ふしぎ探検-足とはきもの』では、展示やイベントなどでボランティアとして助言や助力をうけるようになった。そんな人たちが次第にグループとしてかたまって、「博物館盛り上げ会」をつくり、2ヶ月に1度の頻度で、博物館のあり方についての懇談会をもつようになった。

(つづく)

●千里ニュータウン展の記録は、このブログの2005年10月2006年6月にたっぷりと…

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