郷土史のたのしみ: 神功皇后と吉志氏

 すいはくでは4月25日から8月30日まで吹田1町5村のアーカイブ展を行います。吹田のルーツを探ることで、自分の住む土地の自然のおもしろさを発見、「わが町」に対する誇りと愛情を抱いてもらうことを目的としたものです。会期は長期にわたるために、まず、I.吹田・岸部 Ⅱ.山田、千里、豊津、新田、という地域の歴史民俗に関わるものを2つの期に分け、最後に統合的に吹田の自然をみるという三段階展示を行うことにしました。1,2期については歴史が大きな役割を果たします。そこで、今回の企画に協力していただいく「吹田郷土史研究会」の佐々木進会長にお話をうかがったのですが、その時考えたたことを述べてみます。

画像 郷土史とは、身近なところに目を付け、楽しみながらやるところがおもしろい。吹田が文献に登場するのは『日本書紀』、『古事記』だそうです。神功皇后に反旗をあげた忍熊王が大津で殺さたときその首を、配下の武将が岸部の天津神社に持ってきて埋めたという言い伝えがあるそうです。その武将が吉志氏の祖だと『書紀』の注に書かれています。「オー、そんなに古いのか」と吹田に興味のある人にはなかなかおもしろい発言ですね。

 ところが、「神功皇后の年代は?」と、年表や辞典類を調べてみると、最近の専門書ではまったくネグられているのです。神功皇后は神話の中の人物で歴史とは言えないということでしょう。それはそれでよくわかる、しかしちと困ることもある。日本史研究は、伝統的に『紀・記』を軸としてきました。皇国史観とはまで言わないが、(私もふくめて)、そのラインに沿って教育を受けてきた世代としてとまどいがあります。さらに、私のように、考古学とか民族学という周辺分野をやってるものには、民話、伝説といえども、時代の流れや雰囲気をみるためには、史実を越えるほど重要な資料なのです。

 神功皇后はヤマタイ国のヒミコに擬せられることがあります。これは弥生時代から始まる大陸文化の影響、九州・出雲・近畿の盛衰、巨大古墳の出現、ヤマト朝廷の成立など日本が国家へと育つ過程のなかで書かれた象徴的な人物であるからです。

 話を吹田に限っても、キシ氏は、平安時代の『新選姓氏禄』に記載があること、吉志部神社などの地名や姓名があること、水運を本業としたこと、外資系の須恵器を生産していたこと、など思い当たることがたくさんあります。こういうところが、アカデミーの痩せた実証主義からは開放された豊かなイメージの世界を生むのです。「ふるさと自慢」もなかなかイイモノだと思います。そういう展示ができるかどうか、ご期待ください。

(カンチョー、 写真は天津神社 きょうちゃん撮影)

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