わたしと万博(43)…「古代の夢と現代の夢」 父と古河パビリオン

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六甲山の東に、小さな山がある。その形から甲(かぶと)山と呼ばれている。私が幼い時代を過ごした西宮では、遠足も行楽もまずはこの山に行った。登頂しても何があるわけでもないが、浜風とも山風ともつかない空色の風が吹き、標高たった300メートルの山なのに、随分遠くまで見えたのを覚えている。

「あれは、ソ連館や」

キックベースボールをしていた友人が叫んだ。指差す方向を見ると、確かに赤と白の建物が見える。揚げる前のコロッケのようなのはアメリカ館だろう。東京から親戚がくる度に、会場を得意気に案内していた私には、大体の位置関係が読めた。昭和四十五年の夏の太陽を浴びて、甲山から一番輝いて見えたのは、古河パビリオン「七重の塔」だった。父が勤める会社の展示館だった。

「古代の夢と現代の夢」

これが古河パビリオンのテーマだった。熱心な万博マニアだった私は、画用紙に各パビリオンのテーマを書き出し、上から順に暗記していた。多くのパビリオンが「未来」という言葉をつかう。なのに古河パビリオンのテーマには「未来」の文字がない。未来都市の中にあって「古代」と「現代」しか言及しないのが奇異に思えた。小学校四年生の私は、父にこの質問をしたことがある。しばらく考えた父は、「来週、奈良に行こう」と私に言って、微笑んだ。

奈良・東大寺。鹿と観光客でごった返すこの寺に古河パビリオンの原型になった七重の塔は建っていた。と言っても、1200年も昔の話。今は跡形もない。何もない場所を指差して、「ここにあった」と言われても、感動に震えることも感慨にむせぶこともない。少々不満そうな私に向かって、

「古代と現代をしっかり勉強すれば、未来は見えてくるんだよ」

白い開襟シャツを着た大柄の父が、大仏殿の石畳に反射を受けたまぶしい顔で、こう言ったのを、私は今でもありありと思い出すことができる。

もっとも、その時点で父の言葉の意味がわかるはずもなかった。いくつもの失敗や挫折、ままならぬことやもう少しで追いつけたのにと地団駄を踏む経験を山ほど積んで、万博当時の父の年齢に追いついた今になって、なんとなく、ぼんやりと、父の言った言葉がわかりかけている。

万国博の年。私は自分でも自覚できるほど成長した。万博の前と後では、世界地図の見方ひとつから変わった。しかし、一番大きな収穫は、自分の歩む先に父の言葉を置けたことだと思う。

父はもういないが、甲山から見た光は、今でも私の心の中で、きらめいている。

(蟇田吉昭)
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蟇田君はokkunの会社同僚で、万博当時は小学校4年生であったかと思います。お父さんが万博関係の仕事で関西に転勤になり…という子供は、当時けっこういたのではないでしょうか。2005年10月、人口減少社会のモデルを探そう!と東京から千里NTのフィールドワークに来て、僕がこの博物館に足を踏み入れる遠因を作った人物でもあります。半日万博公園を案内し、古河パビリオンの跡地を探しました。青空が抜けるような快晴の秋の日でした。(okkun)

コメント

  1. 団塊の婆 より:

    下の酒屋&カメラマンのTさんの建設中の写真とこの写真…さすがokkun。

  2. HIKITA より:

    皆様、コメントありがとうございます。小学校の低学年から高学年への端境期に、万国博があったことは、私の運命を大きく変えたように思います。このとき、各パビリオンのテーマを覚えたり、イベントを熱心に見た結果、今ではokkunと同じ広告会社で、クリエーティブの仕事をしています。大阪万博は、私の原点であり、目標でもあります。

  3. 万博ミュージアム より:

    「三丁目の夕日」のような思い出ですね。私の高校の卒業アルバムに豊中市役所から学校を撮影した写真が載ってるんですが、向こうの方にソ連館が写っています。卒業アルバムの中で一番好きな写真です。

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