わたしと万博(25-4)…お祭り広場うらばなし4.

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お祭り広場の運営ディレクター、伊吹健さんの「万博びっくりショー」、テープを起こしたらこんな話も出てきました…。

●茶碗から万博共通語まで
開幕一年前ころの会議は、お茶一杯さえ飲むことができなかった。什器がなかったので湯のみ茶碗やお盆などを頼んでなんとか会議ができる状態になった。協会として一括して消耗品や什器を購入すればよかったのだが、当初その発想がなく、パビリオンなどが個々にそれらを発注した。コーヒーカップを10ダース購入したところもあった。そのおかげで業者は億万長者になったらしい。

企画書などの文書の書き方。進行台本づくりならわれわれ演劇出身者の領域だが、民間人は役所の用語がわからないことが多かった。「ややもすると○○の危険性が含まれる」の「ややもすると」はどのように解釈したらいいのだろう?役所の人、民間企業の人、私のような演劇の人の共通語が確立するのに時間を要した。

●未経験、未経験、未経験…
◎トイレの数…必要数をどう計算したか。小便は男は55秒、女は75秒として割り出した。
◎水道…各食堂は一人あたりバケツ半分の水を使っている。トイレや食堂の水使用量を勘案して上水道の配置を考えた。下水は吹田市と豊中市に半分ずつ処理していただくように手配した。
◎ごみ処理…入場者が一人あたり(弁当箱二つの計算で)250gのごみを出すと試算した。当時はペットボトルはなく、缶だけだった。ごみを集める人をどのように手配するか。この手配が最後になった。新潟や青森から人を雇ってプレハブで雑魚寝してもらってマイクロバスで送迎して、下水用の直径1mくらいのヒューム管を1mに切って紙の袋を中にいれ、その袋ごと回収する方法を採った。

●嘘も方便?
お祭り広場は楽しくて明るい場所で、朝から晩までお祭りならいい。では危険の判断基準は何か。それは混雑の度合いだった。「1m四方に4人いれば混雑」と判定し、警報を出した。「お祭り広場は混雑しています。10分待ってください」の情報を発信した。これは根拠がないのでだましたことになるが、仕方がなかった。

混雑問題で最も苦労させたのはガードマンだった。人の流れは予測がつかないので配置方法がわからなかった。何人ガードマンが必要かという科学的根拠や説得性はなかった。8時間拘束で実働7時間×一週間で考えて必要なガードマンの数を計算した。これらのノウハウは開幕後かなり経過してから大阪の造幣局が持っていることがわかった。「春の通リ抜け」で造幣局はガードマン配置のノウハウは持っていたのだった。早く気づけばよかったが、大蔵省も教えてくれればよかったのに。

●肌で学んだ国際情勢
コンパニオンと仲良くなってきた。お祭り広場で出演者と接する機会がある。たとえばインドの人と打合せしてつぎにパキスタンの人と打合せすると「オマエはインド人と仲良くしていたから打合せを拒否する」と言われ会議に出られなくなった。

台本の「インドシナの祭り」ではカンボジア、ベトナム、ラオスは同じように竹細工の道具でイベントをすることになっていた。ステージに三カ国に上がってもらおうと注文したが拒否された。台本では「合唱」となっているのだが合唱はできない。それほど三者の仲が悪いとは知らなかった。

チェコスロバキアは軍楽隊がすばらしい国だ。バレエ団は民族衣装で踊るのだ。楽屋では制服を着た吹奏楽の軍人(チェコ)と民族舞踊のバレエ団員(スロバキア)は互いに挨拶をしない。当時楽屋には飲み放題の飲み物があった。サントリーが提供してくれた。吹奏楽団の軍人はサントリービールを朝からどんどん飲んでいる。舞踊団はサントリージュースを飲んでいる。「チェコとスロバキアがむりやり一緒にされている」なんて私は共産主義者だから「スロバキアやルーマニアはまだ発展していないので素朴でいいな」と思っていた。その素朴な人たちがそれほど憎しみあっているなんて知らなかった。このようなことを私はステージを通して知ることになった。

●ここがヘンだよニッポン?
北欧系のコンパニオンが休みの日に「ビールを飲みたい。ニュートーキョーに行きたい」と言う。学生運動は低調とはいえまだやっていた。扇町プールあたりから曽根崎を通って中央郵便局付近まで学生のデモがあり、そこで流れ解散していた。私たちは阪急と阪神の間の歩道橋の上からデモ隊を見ていた。するとノルウェーのコンパニオンが手をたたいた。拍手していると思ったら、私を呼んでいるのだった。「パーマネントか?」と聞いてる。西ドイツのコンパニオンもスウェーデンのコンパニオンもキャッキャと喜んでいた。「なぜ人間が車を避けて地下にもぐったり歩道橋に上らなくてはいけないのか」「自動車を高架道路か地下道にして通過させるべきだ」と言うのだった。

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梅新の東映前で同和火災ビルに向けて横断歩道を渡るとき信号を東西と南北と二回待った。するとまた彼女たちは笑うのだった。「野蛮な国だ」「自分たちの町を歩くのに車を避けて二回も待たなくてはイケないとは、なんたることだ」と言うのだ。当時まだ日本ではスクランブル交差点は一般的ではなかった。私は「信号が赤なら止まって、青なら進む」ということだけに慣らされて何も考えなくなっていた。こんな小娘に言われて愕然とした。

ビアホールで十分ビールを飲んだころ「きみたちはなぜ人前でキスするのだ」と聞いた。「キスするのはあたりまえだ」「子どもの頃から牛、羊、ブタの種付けを手伝ってきた。農民が種をまくのと同じだ。動物を増やさないと儲からないし食べていけない」。民族の違いを知った。「人間は食欲だけでなく性欲も大切だ」「下半身不随の身体障害者でも男を知らない、女を知らないことのないよう社会は責任を持って味わわせてあげる必要がある」とのこと。「性欲だから見てみぬふりをしてはいけない」と聞かされびっくりした。それで私はいっぺんに北欧の人が好きになった。顔もスタイルも酒の飲みっぷりもいい。考え方は合理的だ。これらのことを知らないで台本を作っていた私が恥ずかしかった。

●大国と小国の差
大国のパビリオンでは、丸紅や伊藤忠など商社が入ってくる。アメリカ館やソ連館、カナダ、オーストラリア館などは商社が代理を務めていた。建設資金を銀行から借りるのだった。ガボン、コンゴなどの小国は代理店が入ってこない。単独で日本のゼネコンと交渉してパビリオンを建てていた。オカネがないうえに慣れない交渉で不利なこともあり、見ていて心が痛んだ。

●安保と万博
なぜ日本万国博覧会は開かれたのだろう?しかも大阪で。1970年は安保改訂の年だった。国は60年安保闘争の再来を恐れたのだ。1960年には国会周辺がクーデター状態となり、京大生の樺美智子さんが亡くなっていた。このようなことを避けるためには、大きな「お祭り」的ニュースを作って、目をそらせばいい。しかも東京近辺はまずい。西のほうが都合良かった。そこに千里丘陵があった。つまり一種の「世論操作」だったのではないかと考えている。

●万博終われば…タダの人?
青森県や沖縄に祭りの出演交渉に行く人がいた。大阪府か大阪市の担当職員で、石坂泰三万博協会会長の印鑑をついた書面を持って、全国の都道府県を回って話をまとめてくるのだ。知事や教育長などみんなから歓迎されて帰ってくる。協会は半額しか持てない。残り半額は出演する県が持つ。この行脚で多数の知事や議長の名刺を手に入れた某担当氏は万博が終わってから役所を辞め、退職金をすべてつぎこんでイベント・プロデューサー業を始めた。しかしあっという間につぶれた。万博という傘をかぶって仕事していたことに気づかなかったのだ。プロダクションを作って3年で倒産した人もいた。
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…これはやはり、万博展本番でも来ていただくしかないですね…まだまだお話、たくさんありそうでした。

※写真は8/15まで広島で開催中の「特別展・1970年大阪万博の軌跡」のテーマゾーン模型。よーできとりましたわ。

(Report by おーぼら、okkun)

 

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