わたしと万博(24)…万博少年になれなかった僕の万博体験記

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1970年の夏休み。両親共働きの平凡家庭に育った僕は、案の定、どこにも連れて行ってもらえず、クーラーもない居間でゴロゴロ・・・。小学校2年生。京都市内の北部にある小学校だったが、たしか3年生以上は遠足で万博見学に出かけたはずだった。

友だちのうわさやテレビの情報などから、なんとなく「万博」という夢の未来のような楽しそうな空間が、大阪あたりにあるということだけは知っていた。

ところが、母方の祖母の郷里埼玉の田舎から草加せんべいを持って、見たこともない親戚がやって来た。祖母の弟一家であった。目的はもちろん万博見物である。一瞬、自分も行けるとぬか喜び。でも、なぜか連れて行ってもらえなかった。足手まといと思われたのかも知れない。それまであきらめていた万博見物の夢を叶えるべく、両親への万博見たい見たい攻撃を開始するきっかけとなった。本当のところ記憶はかなり曖昧なのだが、それが功を奏してか、夏休みも終わりに近づいた頃、おそらく父母はいやいや、僕と友人をつれていってくれたのであった。とくに父親は人混みや何かをするために並ぶのをことのほかいやがる性格で、この性格は僕にも多分に引き継がれているのであるが、この時点で、悲惨な万博行きとなることは火を見るよりも明らかなのだが、8才の少年には予測不可能なのであった。

国鉄の茨木駅に着いたときには、もう人だらけだった。そこからバスに揺られて何分ぐらいだったろうか。当時の道路事情までは記憶にない。大きな声ではいえないが、高校生ぐらいになるまで万博は茨木市で開催されたものだと思いこんでいた。ごめんなさい。でも、京都・滋賀方面から訪れた人々の中には少なからずそう思っていた人がいたのではないか。

会場に着いた頃には、もうすでに暑かったと思う。とにかくモノレールに乗って、会場を一周し全体をみれば、雰囲気がわかるだろうと親に説得されて、並んだ。モノレールに乗るために・・・。はたして、満員のモノレールに乗って、小学2年生に何が見えたのだろうか?

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計画や目的もなく、ただ子どもにせがまれて仕方なくやって来た親と、何の下調べもなく、ただただ「万博」をみたかった小学2年生が、見学いや入れたパビリオンは、ネパール館とケベック館(ほんとはケベック州館)。えっ、ケベックってどこの国?と思った僕であった。もう少し、メジャーなパビリオンに入りたくて、鏡に覆われた巨大なピラミッドのようなカナダ館に突進した。なんとかカナダ館だけは見たと記憶していたのだが、本当は入館したのではなく、中央ステージを取り囲む通路を通り抜けただけであったと知るのは、仕事がら万博を調べ始めた頃のことである。1970年から4半世紀経とうとしていた。情けない限りである。

今にして気になることがひとつある。小学校2年生は、迷い子バッヂはもらえなかったのだろうか・・・。記念写真が物語っている。

「進歩」と「調和」という相容れない言葉が両立すると信じて疑わなかった多くの日本人たち(もちろん反博の人もいたが・・・)が、怒濤の如く押しかけた夢のビッグイベントは、良きにつけ悪しきにつけ、人類の行く末を示唆するさまざまな要素をはらんでいたような気がする。

(万博少年?T)

※Tさんは、一枚目は左、二枚目は右(一緒に行った友達のH君と)。Tさんは長年「万博会場は茨木市」と思い込んでいたタタリが功を奏し?いまは吹田市に奉職しておられます。(よけいな解説 by okkun)

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