いま、吹田博では10月21日からはじまる秋の特別陳列「昔の文字を読む」の準備におわれています。
漢字がつたわったのは2000年以上前の弥生時代ですが、万葉集の時代までは漢字の音をあてるしかなく、話し言葉を書くのに苦労していた日本人は、奈良時代になって、ようやく独自の仮名を考案します。それによって、想いを自由に表現できるようになったのです。仮名を使った文学が開花し、源氏物語や枕草子は、女性の手になる小説やエッセイとしては世界でもっともはやいものだと言われています。いろは歌は、当時の音を(濁音や破裂音をのぞいて)網羅していますが、それぞれの音についてはたくさんの表記法がありました。
それが簡略化にむかうのが、明治19年の学制から、そして、現在の字に統一されたのは明治33(1900)年のことでした。そのとき定められた字以外は「変体仮名」と呼ばれるようになったのです。
しかし、仮名が江戸時代の寺子屋教育や黄表紙などによって庶民に深く浸透していたこと、手書きするときの書きやすさやバランスのよさ、書面に変化をつける楽しさが書道と深くかかわったために、意外にも根強く消えずに残ります。しかし、近代化の激しい流れには勝てません。とくに、戦後の教育をうけた私たちの世代からは、変体仮名は抜け落ちてしまっいました。
ところが、ミンパクの八杉教授は、文字に遊びが必要だと申すのです。音読み、訓読み、カタカナ、平かな(そして近年はローマ字まで)をつかっていた日本人の努力をヒントとして、英国のヴェントリスがクレタ文化の線文字Bを解読したことを思うと、まだ完全には解読されていないマヤ文字に挑んでいる八杉さんの言うことも一理ある。私は、文字は、簡単かつ正確に情報を伝える手段で十分と考えるのですが。
変体仮名を使った看板はどれくらい残っているのだろうと思いついて、ぼらちゃんたちと、あさひまちに探検に出かけました。いくつみつけたとおもいます?
五つでした。これを多いと見るか、少ないと見るかについては隊員の意見がわかれました。(分析など、詳しくは続編)。
ところでこういうのを何といったらいいのか。変体かなの看板を見つけるのはいいが、どうもよく読めない、okkunのようにいらつくのです(もっとベンキョーしなきゃいけないなー)。
しかし、変体仮名の看板を、(歌碑や道標もそうですね)日本文化の豊かな遺産と考えると、けっこう楽しいものでした。今度の展覧会をきっかけに、変体仮名看板ウオークができないでしょうか。
(カンチョー)
写真上:「昔の文字を読む」展のチラシ
会期:10月21日(土)~12月3日(日)
講演会のほか、カルタ作りや変体仮名を学ぶ体験講座、楔形文字のワークショップなどイベントをたくさん企画しています。
写真下:郡上八幡のそば屋の看板 (部分)
コメント
郡上八幡には変体仮名がたくさん生きているような気がしますが、千里NTってとこは変体仮名が生きにくい印象がありますね。細身のゴシックというイメージでしょうか? コピーライターの世界には、ワープロが普及するまで「コピーライター文字」という独特の筆跡がありました。写植に回したときに誤読されないよう、原稿用紙の升目いっぱい使って文字を明瞭に読ませるのです。ところがここ10年ぐらいの新入社員はこのコピーライター文字のトレーニングを受けていないため(その必要もなくなったため)、たまに手書き文字を書かせると変体仮名に先祖帰りしたような字しか書けません。時代は明治33年以前に逆戻りしているのかも?