Jomon Farmers

カンチョーは今、カリフォルニア大学バークレー校で開催されるシンポジウムに参加するため、渡米しています。

画像

シンポジウムのプログラムはこちら(最新版)。

画像

カンチョーがどんなことを発表しているのか、レジュメをご紹介します。(英文を読みたい方はこちらをどうぞ。)

“Jomon Farmers”
Shuzo Koyama (小山修三・国立民族学博物館名誉教授)

1.狩猟社会か農耕社会か
縄文時代は狩猟採集社会であったというのが、これまでの一般的な定義だった。しかし、過去の発掘報告を調べてみると、たくさんの栽培植物が発見されている。それにもかかわらず、縄文時代に農耕があったことを認める日本の考古学者は少なかった。その理由として、
1)自然遺物が明確に縄文時代のものであることの断定が困難であること、
2)農業とは水田稲作である、という日本人独特の思いこみのあったこと
が考えられる。しかし、近年の発掘の精密化と分析技術の発達によって、栽培植物の発見数が増え、農耕のあったことは否定できなくなってきた。

2.ヒエ作農耕について
栽培植物として重要なのは、主食となる植物である。最近の調査では北海道、東北を中心にヒエの発見例が増えている。もっとも早い例は縄文早期中葉で、その後、出土例は時代とともに増える。S.吉崎は出土したヒエをサイズによって分類し、(1)野生(2)栽培ヒエとよく似たもの(3)栽培ヒエの3グループに分けた。(2)のタイプに属するものが前期から中期にかけて増加し、その後(3)のタイプが増えるので、このころヒエがこの地域で栽培化されたと推定した。他の栽培植物として(北海道では)ソバ、ゴボウ、シソ属があげられているが、これらはヒエ作農耕のセットを構成していたと考えられる。北海道では続縄文から擦文時代をへて、近世アイヌの農耕へと連続しているものである。

日本人の主食は、弥生時代以来、水田稲作のコメであった。しかし、ヒエは気候の寒冷な北日本や傾斜地の多い中部山岳地帯では、長く主食としておおきな役割を果たしてきた。その意味では、(縄文時代とのつながりはまだ明らかにされていないが)、日本には2つの農耕の流れがあったことが分かる。

3.HIDA PROJECT
1979年におこなわれた「Affluent Forager」シンポジウムにおいて、私は岐阜県飛騨地方における野生食品利用の分析をおこなった。資料として用いたのは1873年に書かれた「斐太後風土記」にある415村の産物の記録であった。この地は山岳地帯にあり、コメ作が難しく野生食品の利用がさかんだったことから、その量を推定し、それが支えうる縄文時代の人口を算出しようとした試みだった。

そのなかで行ったクラスター分析で、1)コメ、トチ、ウグイ、シカ 2)ヒエ、ナラ、クリ、イワナ、イノシシ、3)ワラビコ、クマ、カモシカという3つのグループがあることが明らかになった。当時は縄文時代に農耕があったことを考えてなかったので、この分析がヒエ地帯とコメ地帯の差を示していることを追求していない。しかし、30年後の今、縄文時代にヒエ作農耕あったことが仮定できるようになったのである。

画像

4.白川村のヒエ作農業の村
それでは、その社会はどのようなものだったのか、白川村を例に取り上げて考えてみたい。この村の面積は356キロ平方メートル、標高347~2707メートル、傾斜のきつい山地で、多くの村は庄川に添う狭い平地に集まっている。1873年の村数は23、人口2350であった。主要農産物はヒエで、多くは焼き畑で作られていた。その他の農産物は、コメ、ソバ、アワオオムギ、コムギ、キビ、ダイズ、アズキ、エゴマ。他にクズ、クリ、トチ、ナラ。鳥獣類はキジ、ヤマドリ、ウサギ、キツネ、サル、カモシカ、クマ。魚類はアユ、アマゴ、イワナ、ドジョウ。村の人口は60±10がもっともおおく(9村)、ついで30±10(6村)である。他に590、350、220など大型のものがある。

19世紀中頃の飛騨の村は、小規模ながら水田稲作がおこなわれ、生糸、タバコ、焔硝などをつくって商品経済に対応していた。しかし、それでも基本的な食品は、栽培植物もふくめ縄文時代のものとほとんど一致していた。また、集落は人口の多い村のまわりに中、小型の集落がめぐるという地域システムがあったことも、三内丸山など超大型遺跡のあり方を考える上で示唆的である。(縄文社会は農耕社会だったのではないだろうか。)

画像

参考文献
Shuzo Koyama and David Hurst Thomas (eds.) 1979 Affluent Foragers: Pacfic Coasts East and West (Senri Ethnological Studies 9). Osaka: National Museum of Ethnology.
馬路泰藏・馬路明子 2007 『床下からみた白川郷 -焔硝生産と食文化から』 名古屋:風媒社。
山田悟郎 2007 「北海道における栽培植物種子の出土状況」『日本考古学協会 2007年度 熊本大会 研究発表資料集』、pp.409-419、 日本考古学協会。
吉崎昌一 1997 「縄文時代の栽培植物」『第四紀研究』36(5):343-346、第四紀研究会。

コメント

タイトルとURLをコピーしました