高樋説話の背景

5世紀末から日本でも漢字(万葉仮名的にも)が普及しはじめたことは稲荷山古墳の鉄剣(471)が示しています。6~7世紀になると、稗田阿礼の話す帝紀・旧辞を太安万侶が筆記したことが象徴するように、「口承」から「文字」へと記録法が移行した時期でした。そのなかで、天皇を中心にした為政者が(都合のいいように)編集したのが古事記、日本書紀でした。
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5世紀の摂津の国は、東アジア貿易のターミナル港としてモノや知識・技術がなだれ込んでいました。そのため、経済的に大きな力を持つ集団が育ち、なかには国王の座を伺うほどの豪族まで出たようですが、結局は大和朝廷のなかに組み込まれていきました。垂水の集団も、高槻や茨木ほどの力はないものの、そんななかの一つだったと思われます。そういう情勢下では、保身や出世のための、競争がけっこうキビしい。そこで、小豪族たちは出自がいいとか、家業の優秀さとかの自慢話をすることで、一族のプライドと結束固めをやるのです。

『新撰姓氏録』にある垂水公の話は「干ばつの年、難波宮まで高樋をつくって、吹田の名水を送り、天皇さまにほめられた」という話ですが、ここには吹田の水が素晴らしいこと、優秀な技術集団であったこと、それが朝廷に認められたことをしめす自慢話です。8キロにわたる高樋を、干ばつという限られた期間(雨が降ればおわりですから)に、ぱっとつくったというのは、秀吉の州ノ俣の一夜城や、シーザーがライン川につくった橋の話とパターンが同じです。
もし、根拠があるとすれば、目立つことをやって、集団を鼓舞しようとした、リーダーのアセリと集団のドタバタぶりがうかんできて、いっっそ、かわいいような気もしますね。

(カンチョー)

コメント

  1. 団塊の婆 より:

    そうですよね、干ばつが1年以上続いたのなら、そんな工事をしたのもふーんと、理解できますが…
    馬車に乗せて運んだ、くらいは想像できますね。
    先日民博の水の展示を見ました。昔の人たちは身近なものを器に利用して水を入れていたのですよね。ヤシの葉で作ったものまでありました。
    そしてペット水を見て、今後、人は身近なものを利用するすべをなくするのではないかと危惧しました。
    せめて孫たちにはいろいろなサバイバル術を教えていかなくては…。

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