5月8日(土)午後2時から講座室で大阪歴史博物館研究副主幹・積山洋さんが「よみがえる難波宮(なにわのみや)」という題で講演なさいました。
日本書紀に大化の改新の後になにわに都を作ったと書いてあるが難波の宮はどこにあったのかわからなかった。
日本書紀には難波長柄豊碕の宮と書かれてる。その文言から戦前は前期難波宮は現在の長柄にあり、後期難波宮は現在の上町台地にあると考えられていた。
戦前は大阪城周辺は軍隊の敷地だったので発掘調査をしようと考えることすらなかった。戦後、1954年から発掘調査が始まり、1960年代にかけて難波宮の場所がわかってきた。1961年に大阪市大の山根徳太郎(1889~1973)が後期難波宮の大極殿を発見し、難波宮の位置が上町台地と確定した。
コンピューターグラフィックによる復元された大極殿
難波宮の東(現在の森の宮付近)に瓦を焼く窯があり難波宮の瓦の8割はすぐそばで作られた。難波宮の発掘で出てきた吉志部で作られた瓦は約2割だった。などなど1960年から20世紀末までにわかったことを丁寧に説明していただけました。
質問)難波宮は埋められたのですか、埋まってきたのですか?
答え)難波宮は「解体された」のです。瓦を含めほとんどの部材は長岡京でリユースされました。
質問)陸軍の前は何があったのですか?
答え)江戸時代は大坂城代(おおさかじょうだい)や京橋与力の下屋敷or勤務先、豊臣時代は大名屋敷。
それ以前の本願寺時代のことはよくわかってません。
(おーぼら きょーちゃん)
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