故人のことを語りあう。それが亡くなった人への供養になり、残った人たちへの「なぐさめ」になる。お通夜の意味はそういうことらしい。
…ならば亡くなった本人と十分に語る時間が取れたならば、それは双方にとてもしあわせなことだろう。新刊「梅棹忠夫 語る」は、2008年以降、カンチョーが15回にわたって梅棹さんと語った聞き書きの記録である。梅棹さんの体力はしだいに弱りつつあったということだけれど、この本の中の2人は、とても楽しそうで、自由で、明るい。気迫とはげましに満ちている。
大学者で、行動的で、「知の巨塔」といわれた梅棹さんが最後にひとりの青年に戻って、心おきなく知の大草原を自由に駆け回っているようだ。カンチョーは梅棹さんを大草原に連れ出した。日経の中沢さんも素晴らしい仕事をしたと思う。帯の写真も、とてもいい。梅棹さんは座談の名手だったとカンチョーは書いているけれど、それは僕らがカンチョー流だと思っていることとそのまま重なり合う。カンチョーはときどき「明るくやりましょう!」と言うことがある。するどくて口が悪くてバサーッと切り込みながら、決して悲観におちいらない。それは梅棹さんの影響なのか、カンチョーも梅棹さんに反射したのだろうか?
梅棹さんは「ものすごい人」でありながら、いつも「知」で市民をはげまし続けた。大団地のベッドタウンという圧倒的なハード面でしか認知されていなかった千里の地に、「文化」というソフトの芯を入れたのは、みんぱくの力がとても大きい。手を振り上げ続ける太陽の塔と「みんぱく」と、そこに梅棹さんという人がいることは、万博が終わったあと千里で暮らす市民の大きな誇りだった。生まれ育った京都を離れて千里に転居し、同人誌「千里眼」を作って千里の人たちとまじわり、なくなるまで千里で暮らした。
みんぱくは出来た当初から一般の人たちへの広報にとても力を入れてきた。1980年ごろ、東京池袋にあった西武美術館のカウンターで「みんぱく友の会」の入会案内と宛先に書かれた「千里」の地名を見たとき、とてもうれしかったのを覚えている。
1986年、突然の失明という出来事は、市民にも大きなショックだった。しかし梅棹さんの知的活動はおとろえず、周囲の協力を得て毎月のように出る新刊は、その事実が大勢の人をはげましつづけた。この前後の出来事は再版された「夜はまだあけぬか」(講談社文庫)に克明に書かれていて、本人の葛藤と周囲の支えに、僕は胸を打たれた。
この数年は大勢の前に出ることも少なくなっていたが、「はげましのメッセージ」はちゃんと続いていたのだ。「自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の頭で考える」。梅棹さんの生き方はこれからも、市民の生き方の大きな柱であり続けるだろう。梅棹さんは皆で、皆がこれからは梅棹さんなのだ。
「梅棹忠夫 語る」 聞き手 小山修三
日経プレミアシリーズ097(新書判) 日本経済新聞出版社
※このほかにも梅棹さんの本が各種再版され、いま店頭に並んでいます。
※「梅棹忠夫先生をしのぶ会」については、こちら。
(by okkun)
コメント
カンチョーにくっついて梅棹先生の研究室に出入りしていたこぼらです(役得^o^v)。梅棹先生といえば、ご生存中に著作が古典(中公クラシックス)になっていた大学者。しかし、カンチョーがいつもの調子で軽口をたたいても、すっと受けてくださるし、対話の妙をよく心得ていらっしゃって、さすがだなあと思いました。okkunさんがこの本から、そういう雰囲気をきちんと感じ取ってくださっているのが、とてもうれしいです。
そうそう、梅棹先生は、話されたことをそのまま文字にしても、ほとんど直すことなく、きちんとした文章になっていることで有名でした。そこは、なかなかカンチョーがまねできなくて、悔しがって?いました。
そうですか。カンチョーの文体と梅棹さんの文体は似ているなと思っていたのですが、カンチョーは喋るのはナガシマ語なわけですから、ナガシマ語を梅棹文体に直すのは考えてみればすごいジャンプです。こぼらさんはテープ起こしをやって対象に近すぎるから…ということで僕に紹介役が回ってきたのですが、カンチョーの発言部分で「梅棹さんのチョー合理主義的発想」とかいう表記になっているのは、こぼらさんの一芸を見た思いがしました。