カンチョー講演会「梅棹さんと千里」

4月2日(土)午後2時から、「千里の道は世界に通ず 梅棹忠夫写真展」関連講座の3回目「梅棹さんと千里」というカンチョー講演がありました。

千里という「地名」
民博創設に尽力された梅棹さんは、実は大阪万博の公式記録にはまったく登場しないのですが、その開催に深いかかわりがありました(くわしくは→2007年10月2日ブログ「万博をつくりあげた頭脳集団」)。それで千里に縁ができたのですが、大阪市立大学勤務時代もずっと京都から通っていたぐらい京都に愛着のある人が、京大教授をやめて民博館長に専念することになり、ついに千里に軸足をうつすことに・・・新都市・千里に可能性を感じたことのほかに、その名称が大好きなフィールド・蒙古を思い出させる「千里」だったからではないか、とカンチョーは思ったのだそうです。まだ民博の正式な町名番地が吹田市山田なんとかだった頃に、千里万博公園と印刷した(?)という話も残っています。
民博では、タイトルに(Minpakuではなく)Senriを冠した英文研究報告書を創刊しました。(参照→2011年3月22日ブログ「千里という名のついた本」)それは、オックスフォードやケンブリッジがそうであるように、千里地域には阪大などの研究機関があつまっており、ここが学問の中心となって「千里学派」をつくるのだというような気持ちが込められていたのだということです。

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千里という「場所」
カンチョーが調査したオーストラリア・アボリジニは、自分の土地を「カントリー」とよび、愛情をこめて話すそうです。(自分の生まれたところ、先祖代々の地で、いわゆるふるさとのような感じだが、具体的に所有権のある領域があるらしい)そして、ことあるごとにその場をたずねようとし、なみなみならぬ思い入れを示すのだそうです。このような土地への愛着はどうして生まれるのでしょうか?日本人のふるさとの風景がいわゆる白砂青松的なものだけではないと思い知ったのは、千里ニュータウンの開発当初に移り住み、そこで育ったという人が、遮るものがないスコーンと開けた土地にひょろりとした街路樹が植わり、直線的な建物群が建っているのをみると懐かしい、と言うのを聞いたときだったそうです。

日本で最初の大規模ニュータウン・千里、1982年にまちびらき20年を迎えました。梅棹さんは記念シンポジウムを開き、新都市の問題を論じています(この内容は「やわらかい新都市」(講談社・1984)にまとめられています)。牧畜民的発想で、ニュータウンホテル論というべき取り替え自由な新都市ができぬものかと提言しています。千里で育った人は、これをどう考えるでしょうか・・・

フロアから奥居さんが呼ばれて、ニュータウン談義となりました。
奥居さんは、日本全国の大規模(300ha以上)のニュータウンをすべて見て回ったという、千里ニュータウン育ちのニュータウンオタク?です。来年まちびらき50年を迎えようとする千里の現在の問題にも、住民として奮闘中です。

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カンチョーが今日のタイトル「梅棹さんと」の部分を忘れて話をぶっとばすので、いっしょけんめい軌道修正しようとしてくださったのですが、カンチョーの暴走はとまりませんでした。なんとか理解できたところだけ書いてみたのですが・・・すみません、まとまらない(泣)
ひとつだけわかったことは--「人」あってこその「まち」、まちは人がつくるのだ!

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ということにしておこう。

(おーぼら、こぼら、きょうちゃん)

コメント

  1. okkun より:

    ま、だいたいそんなところじゃなかったですかね?私が思う重要なポイントは、梅棹さんが「千里」のコンセプトを「ニュータウン」から「グレーター千里」にグレードアップしなければ、千里はたんに「よくできた住宅地」に終わっていたのではないかということです。「新都市」という本のタイトルには、そのような戦略が込められていると思います。

    あと1973年秋のトイレットペーパー騒動の話で盛り上がりましたね。オイルショックは全国をおおった状況であったのに、なぜ千里住民はひときわ敏感に反応したのか?それは当時ほかにはない「全戸水洗」の町であったことと、家族の年齢や構成がどの家も似ていて情報の回りがものすごく速かったからではないか?つまり千里の住民は「新しい町で結束がなかったから」ではなく、逆に「結束がすごく強かったから」皆が同じ行動に走ってしまったのではないか…?…このような「千里の弱点」を思うにつけ、「同質的な住宅地」から「多様性のある新都市へ」という梅棹さんの示唆は、すごく先見性に満ちているとあらためて感嘆します。(ああなんとかやっと着地した?)

  2. こぼら より:

    okkunさん、補足説明とまとめ、ありがとう。

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