頼山陽は当時のスーパースターでした。その著作『日本外史』は尊皇攘夷をわかりやすい文章で書いたベストセラーで、近藤勇や伊藤博文にまで影響を与えたそうです。また、漢詩人として“川中島の戦い”を詠んだ漢詩「川中島」は、たいへん人気な詩で、現代まで100年以上歌い継がれています(最近もすいはくの詩吟会でうたわれましたが、この詩の一節「ベンセイィー、シュクシュクゥー(鞭声粛々)・・・」は特に有名ですね)。
山陽は他に書や絵もなかなかの腕、今回、出陳の品をたっぷりご鑑賞ください。
中西家には教養人がたくさんやってきて、酒や煎茶を飲みながら交流するサロンとなっていたと想像されます。そこで語られたかもしれない山陽の尊皇攘夷の思想は、下世話になりがちな仲間話を、天下国家を論ずる「清談」に高めていったと思います。そうした客人たちの話は騒然とした幕末の社会や世界の事情にまでかかわる実利的な情報をもたらしたことでしょう。
『郷土吹田の歴史』をみると、18世紀の末から吹田市周辺の村はコメ作だけの農村から、ワタ、ナタネ、ヤサイ、クワイなどの商品作物へとしだいに転換し、コメですら酒にかえていました。それによって、生活水準が向上していったことが幕府がたびかさなる贅沢禁止令を出していることからうかがえます。
人びとは新田開発や貨幣経済へ適応、それに加えて度々襲う災害などの苦難を乗り越えなければなりませんでしたが、見事に実現していったのです。その頂点にあったのが大庄屋でした。大阪の近郊にあったという地理的条件も幸いしたのですが、時勢に敏感な都市からの客をあつめる「装置」として文化サロンを持つまでにいたったことに注目したいとおもいます。
館内で「頼山陽は本当に来たのか?」という話になったのですが、「書画はあるが、来たという確かな証拠はない」そうです。現代でも鶴瓶が地方を歩き回っていることから分かるように、メディアが発達していなかったあの時代、スターは自ら動くことがもっとも効果的でした。山陽が吹田にやってきて、詩吟を唸っていたと考えてみるのも楽しいではありませんか。あの大塩平八郎も書はありますが、中西家へ来た確かな証拠はありません。ただ、泉殿宮で宮司をしていた叔父さんがいたので、あるいは立ち寄っているかもしれません。
(terra)
写真は、頼山陽自画賛「山水図」(個人蔵)
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