フォーラム「テレビの時代」

3月25日(日曜) 14:00~15:30
フォーラム「テレビの時代」
 古吟勳一氏(元関西テレビディレクター)
 桑原征平氏(大阪芸術大学教授・フリーアナウンサー)
館長の指名で飛び入りの高田公理氏(佛教大学教授)

館長が司会をして桑原、古吟(こぎん)、高田氏が語りあいました。

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1967年4月から桂米朝さんが関西テレビの『ハイ!土曜日です』の司会をはじめました。
左京さんは米朝さんの追っかけで、よくスタジオに顔を出していたのでやがて米朝さんが左京さんに「あんたも出たら」と誘ったことから左京さんもレギュラー出演するようになったそうです。

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土曜日の番組の打合せは金曜の夜、ホテルプラザのメインバー「マルコポーロ」で食事しながら飲みながら深夜までやってたましたが、たいていまとまることはなかったのですが、本番ではちゃんとできていました。

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この番組は90分番組を三つに分けて各コーナーに分けた構成になっていました。
その中で世の中を伐るコーナーは(いまでこそ普通になってますが)その種の番組のハシリでした。

桑原征平の挑戦コーナーでは
1975年10月広島カープが初優勝したとき、パリーグは阪急が優勝したのに全国的に広島一辺倒の報道となっていて、「広島ファンでなければ人間にあらず」といった空気がありました。
古吟プロデューサー広島にいる数少ない阪急ファンを発掘してスタジオでしゃべってもらう目的で桑原さんを広島に派遣しましたが、結果的には殴り込みになったようです。
このことを知った阪急ブレーブスの西本監督は亡くなるまで「あの番組はうれしかった」と語ってたそうです。
身体をはって桑原がやってるのを見て米朝・小松は「関テレの社員に何をさせるのか。危険手当もないのによくやる」と感心していました。

桑原さんは東京オリンピック(1964年)の水球の選手候補になっていた人で体力には自信があった人。サラリーマンをしていたときスポーツ新聞に関西テレビが万博用にアナウンサーを募集していることを知り応募したら合格しました。合格したものの標準語が話せないので万博では会場内で送迎用電気自動車の運転手として働いていました。

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左京さんは漫画家をめざしてマンガを書いていましたが「手塚治虫さんには勝てない」と自覚して漫画家になることをあきらめたそうです。
このような例はジャンボ尾崎が「西鉄の池永投手には勝てない」と野球をやめた話や、落語家になりたかった上岡龍太郎が「桂小米(のちの桂枝雀)には勝てない」と落語家になることをあきらめたといったものがあります。

このほか
関西テレビの「源流をさぐるシリーズ」の黄河の取材をめぐって「日本にあって中国にない三つのS」が話されました。(詳細は省略)

さらに一度もニュース原稿を読むことなく定年を迎えた桑原アナウンサーの最後の願い。「ニュースを読ませてください」に込められたシカケのはなし・・・・などなど盛りだくさんの裏話てんこ盛りの90分でした。
(おーぼら)

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コメント

  1. てつ より:

    行きましたとも(^O^)全部は聞く時間なかったけど、何度も爆笑しましたとも♪

  2. てつ より:

    小松さんは お亡くなりになられる直前 3人に会いたいと言われたそうで その 3人とは 米朝さん 石毛直道さん そして 古吟さんだったとか・・・ 乙部さんから連絡を受けた古吟さんはかけつけ たどり着いたのは ご臨終の1分後だったとか・・・この話にはじーんときました。

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