中西家の当主は代々八兵衛をなのっていました。
吉志部神社の参道の石段を上り詰めたところ、神門の手まえに寄進された石灯籠があり、
明和六年(1769)
中西八兵衛(八兵衛二代目)と刻まれています。
どんじ祭りの東村当屋にもなった中西家は、神社の振興にも力を注いでいたことがわかります。
明和六年は田沼意次時代で、経済政策が農業中心から商業へと切り替えられた時期にあたり、社会が大きく揺らいでいました。この地方でも、むしろその機を利用して順調な発展を遂げたようです。中西家は世話役として(この頃は肝煎)吉志部村をまもり、大庄屋への道を歩んでいったことがわかります。博物館にきたとき、是非足を運んでみてください。
(I)
コメント