講演会「千里ニュータウンを世界遺産に」(11/4)

11月4日午後2時半から講座室では大阪人間科学大学教授の片寄俊秀さんの講演会。片寄先生がすいはくで講演するのは今回が4回目です。
1回目2006/04/23、2回目2007/10/26、3回目2011/03/31

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片寄さんは
「千里ニュータウンを世界遺産に」というきょうのタイトルを検索したら、前吹田市長が提唱していたとわかったので、市役所に資料があるのか問合わせたら「前市長の思いつきなので資料は存在しない」との返事だった。

片寄さんは京都大学工学部建築学科卒業ですが、在学中の1961年、京大アフリカ類人猿学術調査隊設営担当として、英国領タンガニーカに出張。(出張中1961年12月9日タンガニーカは英国から独立しタンザニアとなった。)
京都大学大学院修了後、大阪府技師として千里ニュータウンがまち開きした1962年から70年まで千里ニュータウンや泉北ニュータウンそして万博の開発にもかかわった。
きょうは片寄さんが大阪府技師として千里ニュータウン開発事業に従事した経験を紹介しつつ千里ニュータウンを世界遺産とするための心得をお話してくださいました。

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千里丘陵の山を削った土で谷や沢を埋めてなだらかな宅地を作った。その面積1200haとは12平方Km(3km×4km)なので各所に多数の階段などをつくる必要があった。たとえば階段なら、その幅、高さ、材料、積算単価までをも標準化(マニュアル化)して、全域でマニュアルを使った。それまでの開発では個々の(階段で)設計図や単価を書く必要があったが標準化すれば番号を記入するだけで書類ができるようになった。川は直線化して三面張りにすることなど、あらゆるものをマニュアル化することで工事期間の短縮を図った。
片寄さんが作った「宅造設計マニュアル」のほか「遊水地設計マニュアル」は全国に波及していくことになり、日本中が千里ニュータウンのような画一的なまちになっていった。

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≪1960年当時の時代背景≫
1960年、建設省は新住宅建設計画を発表し、そこには1961年からの10年間で一千万戸を建て、5年後に一世帯一戸とすると書かれてあった。名神高速道路や東海道新幹線(当時は仮称・新東海道線)も着工されていた。
1963年の大阪のスモッグ(大気汚染)は世界的になっていた。

1961年2月住宅難を解消するために「千里丘陵に住宅都市・大阪府が7年がかりで建設へ」という新聞記事が出た。61年7月に千里ニュータウンの起工式がおこなわれた。片寄さんはまだ学生だった。

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翌年62年11月2日にまち開きがおこなわれた。下写真は片寄さんが最近中之島図書館で見つけたもので、当日の夕刊の記事は小さなものだった。
≪記事内容は≫
11月2日午前9時半から左藤府知事、赤間参議院議員ら関係者約700人が出席、吹田市佐竹台のニュータウン内保健センター裏広場で催された。左藤知事は「東洋一というよりも世界一の町づくりの“まち開き”ができてうれしい。ニュータウンの全体計画もすでに86.5%の用地買収を終っており、今後理想的な町づくりに一層努力する」とあいさつ。(中略)
午前10時すぎ式を終ったが、このあと入居者の主婦たち約50人が会場付近におしかけ、左藤知事に面会を求めた。しかし知事が帰っていたため、前知事の赤間参議院議員が代りに応対し、約10分間主婦たちから「水道料金が高すぎる」「診療設備や道路が悪い」など未完成のニュータウンの苦情をきき、赤間議員から左藤知事に、入居者たちのいい分を伝えることを確約、話合いを終った。

片寄さんは大阪府の新人職員として式に参列していた。
左藤知事が満面の笑みでまち開き宣言をしたそのむこう、津雲台方面には「土地取り上げ反対!」などと書かれたムシロ旗と労働組合の赤旗が並んでいて、拡声器から大声が聞こえてきた。会場では入居者が苦情を訴えていた。
現場にいた新人の片寄さんは「こわかった」とのこと。新聞には住民の不満は書かれているが反対運動のことはまったく書かれていないことを今般中之島図書館で知った。山田村は百姓一揆で有名な場所でムシロ旗の伝統がある場所なのだ。その伝統を受け継いでこのムシロ旗があがったのだと思う。
この騒然とした事実はその後まったく語られていないことだが、古老の片寄さんは現場で見聞きした事実だった。

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≪千里丘陵の農地の買い上げ≫
当時は「用地さえ買えば事業の90%は終った」といわれていた。
1958年に30%、62年には82%を超えていた。万博の2年前の68年に全面買収が完了した。
最初は平米単価は550円だった。62年で1780円、68年には9810円にもなっていた。これはインフレもあり、御堂筋線の買収もありさらに開幕が決まっている万博のための買収がからんでいたので68年ころは札束が乱舞したと言われている。

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≪用地買収≫
大阪府はどのような方法で用地買収したのか。当時片寄さんは新人職員だったのでトップシークレットの方法は不明だが、上司が異動時に破棄した資料から二番手、三番手の秘策はわかった。

用地買収の原則
1)公簿買収・・土地登記簿にある面積で買う。実測したら5倍から十倍以上の費用がかかる。
地主は実測を主張するが「時間がない」ことを理由に公簿で買収した。
2)佐井寺、山田、下新田、山田小川などでは良好な田んぼ以外は即刻安値で買収。
4)豊中地区の上新田、熊野田、東豊中5丁目は良い反応がなければ「買わない」とつっぱねる。
5)山田の良好の田んぼは「買わないよ」と言いつつ出方をみる。

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≪戦略≫
1)地域支配構造=各地域のボスをおさえる。
2)そして早い段階で買収の大勢をきめる。農民に「もう、そこまで進んでるのか」と思わせることが肝要。
3)(はじめに高い場所を買うとその値段が基準となるので)単価の安いところから買いあさる。

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≪戦術≫
ダム建設、高速道路建設ですでにこれら用地買収の戦略ノウハウは蓄積してた。
1)土地所有者の姻戚関係まで調べる。もちろん地域のボスも活用する。
2)ある時期以後は団体交渉は一切受付けないで反対派を分断していく。
3)「抵抗すれば高く買う」ということは絶対に避けた。
4)絶対に興奮してはいけない。
10)彼らは近所の土地を熟知しているので代替地の要求には乗らない。しかし最後には代替地も使った。

片寄さんは技術職だったが職場の同じ部屋に用地買収担当の通称「用地屋さん」がいた。彼らは夕方16時半ころ出勤してきて17時から一升瓶をたずさえて用地買収に出かける。
彼ら用地屋さんたちは「府関係者の立入りお断り」などの看板をくぐって農家に上がりこんで根気よく説得活動をしていたのだ。罵声を浴び、コエ(※)を身体にかけられたりしたこともあった。(※コエ:し尿。当時はくみ取り式だったのでいくらでも手に入った)そこでけんかをしないで低姿勢で応対した。税務出身者が多かった。
《結果として》
大規模全面買収を一気におこなったので意外に安く買収できた。
彼らの苦労がこんにちの千里ニュータウンの基礎をつくったのだ。

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≪上新田をどうするか≫
表現としては「地元の発意を育てる」として地区の人がその気になれば応援するとは言ってたものの何の提案もしなかった。結果として千里中央のすぐそばにニュータウンではない場所が残るが、大阪府は「手をつけないでいい」としたのだった。

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千里ニュータウンができて半世紀。片寄さんは正月の上新田に行ってみておどろいた。千里中央から延々と人の列が天神さんに続いていた。上新田の神さん(神社)がニュータウンの氏神さんになって千里ニュータウンを飲み込んでいるのだった。
上新田は千里ニュータウンの重要なスポットになっていることに気づいた。ニュータウンにならなかった山田と佐井寺の伊射奈岐神社も同じ役割を果たしている。
そして
千里ニュータウンの多くの矛盾を上新田が吸収している。ニュータウンに立地できないものがここにある。マンションの開発、ゴルフの練習場、そして神社。

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千里ニュータウンの宝は上新田だ。上新田の存在が千里ニュータウンを救っていると考えられる。この新・旧のハーモニーと共存が世界遺産への物語になる。さらに、千里ニュータウンはマイカーなしで住めるまちを意識してつくった。高齢社会でこの思想が生きてくるだろう。

千里ニュータウンはまち開き以後に目が行くし、多くが語られているが、その前段階の土地買収過程での大阪府職員の筆舌しがたい苦労や努力を知り、新・旧のまちのハーモニーと共存などを知ることが世界遺産への道の入口ではないだろうか。

*********** 番外編 **********
≪質問≫
新御堂筋の西の春日地区の千里ニュータウンではない場所に「桃山台5丁目」という番地がある。なぜか?

≪古老の回答≫
購入は「筆」ごとにだった。用地買収のとき必要面積よりも余裕をもって購入した。
「余った場所を代替地しよう」というコンタン(したごころ)はあったのだろう。

買収作業が最終場面になったころ、傷害事件があり、その解決策として代替地を手放す作戦が始まった。

「代替地がいい場所なのか、悪い場所なのか」は農民はみんな知ってる。交渉に当たっていた幹部農民は立場上、先に良質な代替地を取るわけにいかなかった。結局、「しんどい思いをして交渉していた幹部農民が、条件の悪い代替地をもらうことになった」という悲劇もあった。

このような思いをした人たちが千里ニュータウンの礎(いしずえ)になっている。
だんまり戦術、罵倒戦術、コエかけ戦術などに耐えて買収交渉をまかされた大阪府の職員や、良くない土地とわかって代替地をもらった幹部農民など多大な苦労があったことを古老(の片寄さん)は見てきた。
「まち開き50年」というが、先人の「こんなに苦労して手に入れたまちなのだ」という想いを今後の50年に生かしてほしい。世界遺産になるためにはこの物語を共有する必要がある。

≪中牧館長の感想≫
元文化庁長官で心理学者の河合隼雄(かわいはやお)先生はユング心理学を学びながら、日本神話における中空構造を研究されていた。一番偉いアメノミナカヌシ(天之御中主)という神さんは、中心の神なのに何もしないのだった。そのモデルが上新田にあるのではないかとおもっていた。
と感想を述べました。

≪参考≫ 河合隼人いわく『・・・・・アメノミナカヌシという無為の中心が、すべての創造の源泉と考えるのである。』・・・と。

(おーぼら)

コメント

  1. uniko より:

    丁寧なまとめ、いつもありがとうございます

  2. okkun より:

    おーぼらさんおつかれさまです!

  3. 上新田天神社の今は・・・ より:

    このようなことになっています。
    http://mid.parfe.jp/kannyo/tennjinnsyakeikann/index.htm

    もうご存知の方も多いでしょうが近鉄不動産とMID都市開発が「ロジュマン」という超高層マンションを建設し天神社が存続の危機にさらされてしまっています。

    かつて上新田の原風景をこよなく愛していた郷土史研究家の方がみられたら「さぞかしおいたわしや」となげきかなしむでしょう。
    これ以上、先人たちが培ってきた千里の原風景を損ねてほしくないものです。

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