2017年、大阪万博から47年目の文化の日。
万博のお祭り広場の設計をなさった上田篤先生の講演がありました。
はじめに中牧館長が(祭りのはっぴを着て)上田先生の紹介を兼ねたあいさつ
上田先生は
お祭り広場の設計で有名だがそれだけではない、
たくさんの発見や発明がある例えば、・「五重塔はなぜ倒れないか」を解明された
・建設省で千里ニュータウンなどニュータウンの計画を担当した
・鎮守の森の研究をして、社叢学会を作った。
日本各地に残っている鎮守の森こそが日本の伝統文化のあり方だというような主張をされ、
さらにさかのぼって縄文文化に通じるということで縄文文化/竪穴住居の問題にも造詣が深い。
さらに日本国家の成立にかかわることで、とくにアマテラスの役割、国土の形成に関心をもって研究なさっている
そしてまもなく米寿を迎えられる。お元気で、大いに刺激を受ける人です。
このたび吉志部神社の鎮守の森にある吹田市立博物館におまねきしました。
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以下、すいはく博物館だよりから転写
「お祭り広場」って何だろう?一大阪万博秘話
大阪の北方、千里ニュータウンの傍に万博記念公園があり、そこにひと際目立つ、お化けのような「太郎タワー」が立っている。そしてその辺りをお祭り広場跡という。その「お祭り広場」とはいったい何だろうか?
今から53年前の夏、長く辛かった戦争を忘れるかのように、日本中は「東京オリンピック」に沸いていた。ところがそのとき、もう一つの国際文化イベントである万国博覧会の大阪開催を目指して通産省を通し、密かにパリ国際博覧会協会に働きかけていた文化人グループがあった。建築家の浅田孝、建築評論家の川添登、文化人類学者の梅棉忠夫、SF作家の小松左京らである。その彼らの運動が功を奏して、翌年春、パリ国際博覧会協会は1970(昭和45)年に大阪で万博を行うことを決定したのである。
そのニュースが日本に伝わったとき、寝耳に水の関西人はびっくりした。「万博って一体何や?」。しかし、もう時間がなかった。その会場が千里ニュータウンの隣接地と決まったため、早速、大阪府・市を中心とする対策事務局が作られ、その何人かの役人が、たまたまその年の一月に京都大学建築学科の助教授に赴任した私のところにやって来た。というのも、私はそれまでの約10年間、建設省住宅局にいて日本のニュータウン建設に取り組んでいたのだが、私のところへ来られた人々はその関係者たちで、彼らは万博の準備を命じられたものの万博が分からず、元中央官僚の私のところに助けを求めにきたのだった。しかし万博は通産省の所管で建設省の知るところではない。そこで「万博の調査を始めては?」と提案したところ、その調査を私がやらされることになった。
そこで私は京都大学建築学科内の京大建築会に勧進元を依頼し、私の直属の教授の西山卯三氏を責任者として、京大を中心として私の知る限りの関西の知識人・学者を総動員し「万博とは何か」と関西の知識人・学者を総動員し「万博とは何か」というA4判300頁の報告書を3か月余りで作り上げた。ために私は生涯初めて、3日完全徹夜なるものを数回やった。34歳の「若さの暴走」だった。
しかし、大阪府・市を始め多くの市町村、マスコミ、企業、学校などにその報告書が配られた結果、万博の趣旨が次第に理解されていった。単なる産業博覧会などと違い「人類はどうあるべきか」ということについての特定のテーマを持って各国、各企業が出展するものだ、ということである。
その大阪万博のテーマもやがて「人類の進歩と調和」と決まった。後は会場計画委員会が作られて、会場計画の原案作成者を決めるだけとなった。そうしたその年の12月末に会場計画委員会が開かれることになり、その直前に私のところへまた府・市の担当者がやってきて「会場計画の原案作成者をぜひ関西から出してほしい」と懇願した。
しかし懇願されても私は先の「調査報告書」をまとめ上げたに過ぎず、名目上の編者は西山教授であり、ために西山教授は会場計画委員になったが、私は会場計画委員でも何でもない。大学の一助教授に過ぎず何もできる立場にない。しかも会場計画委員会委員のメンバー表を見ると、西山教授のほかに、西山教授が委員になったためか下馬評では有力だった先の浅田孝氏の名が消え、代わりに東京オリンピックで数々の施設の設計で有名になった丹下健三東京大学教授が入っている。そして会場計画委員会は、原案作成者をこの西山・丹下の二人のどちらにするかで惧悩している、というのである。
そこで私は言った。「それなら、西山卯三さんと丹下健三さんのお二人に共同設計をお願いしては? お二人ならきっとできるでしょう」。私がこのお二人なら共同設計ができるだろうと思ったのは、お二人は建築家とはいえその業績が余りにも違うからだ。丹下さんは正真正銘の世界の建築家だが、西山さんは建築家とはいえその実質のお仕事は都市計画や国土計画である。しかしそういう内実はともあれ、これは絵の巨匠のピカソとマチスに共同制作をお願いするようなもので果たしてそんなことができるのだろうか?府市の担当者たちは不安げな顔をして帰っていった。
しかし、その数日後に先の会場計画委員会が開かれ、その席上、丹下健三さんが「西山さんとならうまくやれるでしょう」と言って西山・丹下の共同設計案を了承されたのである。私のアイデアは採択されたのだった。
それから1か月後の節分の夜、丹下さんの申し出により東京のホテル・ニューオータニの特別室で、西山さんと丹下さん、それにお忙しい両氏の代理人として私と丹下さんのお弟子の建築家の磯崎新さんの合計4人が、会場計画のやり方について具体的な相談を行うことになった。その席上、丹下さんはこう提案された。「西山先生。会場計画の原案を先に、つまり設計期間の前半に自由におやりください。ただし後半を私にやらせてください。そのとき30パーセントだけ変更をお許しください」。これは、お二人が純粋の芸術家だったら誰が聞いても腰を抜かすような提案だろう。それを丹下さんが言い出され、西山さんも了承された。つまり私の突飛なアイデアが日の目に向かったのである。
そこで会場計画の前半をやることになった西山さんは私に「万博会場を未来都市のモデルにするから、中心に広場を置く案を描け」といわれた。しかし私は「羽仁五郎さんも『都市の論理』でいわれる通り、日本の都市には広場の伝統がありません」と答えたが「なかったら新しく作れ」といわれた。私は咄嗟に「お祭りのときの広場ならあります」と答えたら「それでいい」といわれた。
私がそう答えたのも、東京から京都に向かって出来たばかりの新幹線に乗って京大に赴任したとき、国土の山野に無数の鎮守の森を「発見」したからだ。それまでニュータウンばかり手掛けていた私は、そういう伝統の存在にビックリした。
そこで京大に来て学生たちと各地の鎮守の森を調査したところ、その多くが祭の時に神輿の御旅所になる「小広場」をもっていることを知った。そこで祭のイベントが行われる。その素晴らしいものに小豆島の亀山八幡宮のお旅所があった。広場の周囲に大きな石が7、8段も連続して立ち並び、まるでギリシャの野外劇場の観覧席のようだ。私はそれを基に原案を描いた。そういうことがあって、西山さんの前半の案は「お祭り広場を持つ未来都市」となった。
後半は丹下さんがそのお祭り広場案を引き継ぎ そこに六角形ユニットの鉄骨の箱を無数に連続させた、航空母艦のように巨大な「カマボコ板の屋根」を掛けられた。そして私に「その下にそれに見合う観覧席、広場、地下空間などを設計しなさい」と命じられたのである。西山さんが途中で設計を降りられたため、代わりに、たいして建築デザインの実績もない私を抜擢していただいた。
丹下さんは西山さんとの約束を守られたのであった。私は感激してその任に当たった。なお、また丹下さんは別に岡本太郎さんという画家にシンボルとなるタワーの設計を依頼された。これも岡本さんは彫刻家でもなかったのにその大任を見事に果たされた。そうしてそれはお祭り広場のシンボルになった。
こうして出来上がったお祭り広場は大阪万博の花形となり、連日連夜、そこで世界の祭りが行われ、当初の予想を大きく超えて万博史上最高の6400万人もの観客を集めた。お祭り広場の案が発表された当初、万博運営を所管する通産省が「万博は産業技術の博覧会だから、お祭りをやりたかったら文部省に頼め」と異議を唱えたが、後には黙ってしまった。
このような大阪万博は何から何までが異例づくめの一大イベントだった。そんなことが許されたのも、敗戦に打ちひしがれた当時の日本人が、まなじりを決して日本文化を持って世界に立ち向かおう、という強い意欲があったからだろう。西山・丹下・岡本さんらもなくなられた今となっては遠い思い出である。(元大阪大学教授 上田 篤)
(おーぼら)
コメント
死んだとか言われてますが おっとどっこい生きてます
今は 来年のラグビーワールドカップ日本大会で観たい試合を
見るべく先行販売チケット争奪戦で奮闘 現在 60万円ほど支払いました それほど価値ある日本開催です 合言葉は「4年に一度じゃない 一生に一度だ」海外でのW杯なら 1試合見に行くだけで4~50万円しますから 僕の確保した ニュージーランド対南アフリカ フランス対イングランド スコットランド対アイルランド 日本代表が戦う全4試合 比較的近い 神戸ノエビアスタジアムの全4試合 3位決定戦 決勝 までは 全部チケットとれました あとは 準決勝の横浜での2試合を今 エントリー中です あとは 交通費と 宿泊費 ビール代と食事代を稼ぎ 休みをどうやってとるかです な・・・話ではなく 「ニュータウン誕生」が始まると案内もらい 初日の一番ですいはくと 南千里も行くも 昔のすいはく以上にがらがら 人を見かけず 関係者も居ない 案内もらった初日ですよ あの盛り上がったころなら カンガエラレナイ まして このブログ いまだ 西村公朝展のまんま・・・ まっ 西村公泉 美江子さんとは ラグビー日本代表があの 南アフリカに勝った一番の原因を語らねばならないのですが。。。(メンタルコーチが私たちと非常につながりが深いことが昨秋にわかった) で・・・・ このブログ どうなってんの?盛んな頃に たくさんのひとに毎日見てねと宣伝しろと言われ 広めたんですよ 今でも言われますよ 白井さんからとか・・・なんで 「ニュータウン」がテーマなのに もりあがってないの????????
何だかなー
ですよね 展示が変わって初日 入場料が無料なだけ ロビーには 触る展示の関係者だらけ ぺちゃくちゃ喋ってばかりで ロビーの展示もゆっくり見れない あけくの果てに 第2展示室に来て 変な展示 いつもの 太鼓や さわれる仏像がない とかおばちゃんが言うから 思わず 今回は違う展示をしてると伝えておきました。
ニュータウン展示では ニュータウンを研究しているらしき学生二人が
航空写真や地図を見てちんぷんかんぷんなことを言いあってるんで 正しいことを伝えておきました。千里ニュータウンのことなら 展示したひとより 詳しく話せるわ なんてね しかし 勿体ないなー ひとの居ない 展示室 一日中いて 勝手に解説したろかともおもたけど 14時からラグビーの日本代表の生中継あるし 帰りましたとさ ちゃんちゃん
2018.6.30 先週 南信州は 駒ヶ根のユースホステルでジビエ持ち寄りバーベキューパーティーがあり行ってきたんですが なんとここで
京都から来ていた女性で 団地が好きで 団地に住みたくて 若くて 吹田市立博物館の ニュータウン誕生を見に行く予定だと言う方と出会った・・で、どうやって行けばいいかと言うから
しゃらくせい 案内してやると お連れした
ラッキーなことに 喫茶ミリカ開催日 5年ぶりぐらいに珈琲飲んだわ そして あの頃はじまった 触る展示
これもたまたま 広瀬先生の講演
最後に講座室入ったところだったけど 質問コーナーの時で
先崎に質問された方「こんな素晴らしい講演 どうやって知ったらいいですか?」の問い 関係者の回答は 市報とすいはくホームページ あああ・・・このブログが機能していれば もっと講座室は人で溢れたのに・・・120名の定員にして 15名ほどでした ああ いつまでたってももったいない