春の特別展『吹田の景観を掘りおこす2』がいよいよ4/21からはじまります。
最初の講演会は4/22(日)の金関恕先生の「鬼道につかえた卑弥呼」です。
鬼道とは、超自然的な世界に入りこんで宣託を受け、どうするかをきめるシャーマニズム的なものでしょう。だから、合理主義な儒教を信条としていた当時の中国の知識階級には、あやしげな邪教が政策まできめるヤバンな国とみえたらしい。しかし、古事記や日本書紀をはじめとする記事の数々、そして、今日の神社のあり方に見られるように、日本人のこころには、自然崇拝的な要素が強くいすわり、現在もヒミコの時代から完全にぬけきってはいないようです。
ヒミコの生きた弥生時代は、水田でのコメ栽培が導入されてムラができ、それがまとまって(小さな)クニになり、さらに上をめざす主権あらそいがくりひろげられていた。ヒミコは、そんな情勢のなかで、大陸の魏と外交関係を結ぶほどの力をもつ国(後のヤマト朝廷の原型となる)、を作りあげた。中国から使者がやってきて、「倭」の情報を集め、書きあらわしたのが『魏志倭人伝』です。大陸の東に浮かぶ島の倭人国への行き方、歴史、習俗、人口、産物など結構つっこんで書いてある。
しかし、倭国ツアーの記述が問題だ。朝鮮半島から発して大海を渡り、対馬、壱岐をへて博多あたりにあった奴国(あの金印で有名)に上陸、そして隣接する北九州のクニグニへ。ここまでは、距離でけっこう里数で正しくかいてある。
問題は最後の不彌国を出て投馬の国、そしてヤマタイ国に行くために舟のってからである。水行20日とか、陸行1月などと、距離ではなく時間で旅程をあらわし(朝の交通情報みたい)、また方角の表示もあやしくなる。投馬国からは、ちがう文化圏(中国的な基準が通じない)に入ったのではないでしょうか。
倭人伝の記述が曖昧であるために、肝心の女王国が何処にあるのかがはっきりしなくなった。九州説と畿内説の二つが新井白石や本居宣長、近代では東大、京大のアカデミーが九州説と畿内説を唱えて、激しく対立していました。考古学者も当然この論争に加わっているのですが、モノではしょせんは状況証拠しか提示できない(ヒミコの墓碑とか、ここより邪馬台国という道標でも出れば別ですが)。だからどちらも決め手がない。
1967年に、盲目の元島原鉄道重役の宮崎康平が『まぼろしの邪馬台国」をかき、ベストセラーとなった。それをきっかけに邪馬台国論争は一般人にも開放されるようになった。推理作家、松本清張の『古代史疑』もそれを盛り上げた。そのため、今では所在地は九州、近畿にとどまらず、東北、沖縄、ハワイまで多様な意見がある。宮崎、松本が九州説を唱えたように、郷土愛が前面に出てくるところも特徴。
わたしは、考古学だから、状況証拠を重んじ、近畿にあったと思いたい。そうすると、櫻井市の橿向あたりがヤマタイ国。
*次回はすいたはヤマタイ国の一部なのか、別のクニだったのかを考えます。
(カンチョー)
絵:平成11年香川県でおこなわれたシンポジウム「邪馬台国の謎を追う」(主催:瀬戸内海歴史民俗資料館)チラシ デザインは安芸早穂子さん。
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