お祭り広場の運営ディレクター、伊吹健さんの「万博びっくりショー」、お話は尽きることなく続きます!
●大屋根の下で…
お祭り広場では「日本のまつり」を集めたイベントもあった。文化財も来る。高山の人形からくりなど養生がたいへん。お祭り広場の大屋根は10m四方の枠の集まりで形成されている。その10m四方に東レの作ったフィルムが二枚重ねられていた。二枚の間に空気を送って膨らませていた。雪の時は送る空気を暖めて雪を溶かした。屋根を維持するのに地下室で20~30人が働いていた。大屋根の下では国旗掲揚しても旗が垂れてしまうのでポールにスリットをあけて送風した。
●動かないスタッフ
携帯電話は展示物としてしかない時代、チーフスタッフは重たいポケットベルを持たされた。ベルが鳴ったら協会に電話して要件を聞くのだった。パビリオンが建設されると各々の国からコンパニオンがやってきた。各国で選ばれた人だけあって、プロポーションもグーな人ばかりだった。北欧、ブラジル…目がうろちょろした。味の素やカゴメのレストランもできた。ウエイトレスがまた美しい。有名大学の現役女子学生!すぐに行列のできるレストランになった。若いスタッフは昼食に行くと一時間以上帰ってこなかった。ポケベルを鳴らしてもポケベルはチーフしか持っていなかったので若いスタッフは戻ってこず、意味がなかった。
●トイレはどこ?
お祭り広場から記念協会まで歩くと普通は10分くらいで着くのだが、開幕後は人の波にさからって行かねばならず30分もかかった。予想以上の人波だった。開幕数日でコンパニオンとガードマンが泣きついてきた。理由は「トイレや公衆電話の場所を頻繁に聞かれて本来の業務ができない」とのことだった。トイレのマークはあるのだが、人の背丈よりやや高いだけで、混雑すると見えないことがわかった。模造紙に「トイレ」と大きく書いてもっと高い位置に貼ろうとしたが「建築家が許可しない」ということで却下された。
●にじみ出るお国柄
人気を二分していたアメリカ館とソ連館だったが、行列の対応には差があった。アメリカ館では、待たせているお客さんを楽しませようと、ホステスたちが即興で音楽演奏を始めた。ソ連館は官僚的でほったらかし。展示はどちらも素晴らしかったが、アメリカ人気質には感心した。
世界情勢を肌で感じる出来事もあった。隣国同士のA国とB国のホステスが、どうしても一緒にステージに上るのは嫌だと言う。両国には対立・侵略の歴史があったのだが、私は知らなかった。会場は世界の縮図だった。
●「象まつり」のハプニング
夏休みにはタイから象20頭を運んで、「象まつり」というイベントをやった。当時、タイで象はダンプでありトラックだったから、建設業者の顔で象を集めた。象は会場付近に10日あまりいた。エサが不満だったらしく隣の竹林を食べ始めてしまい、地主さんが怒った。真夏に象が20頭もいるのに、水は蛇口が一つしかなかった。水に飢えた象は、お祭り広場まで出勤してきたとき、広場の隣にあったイサム・ノグチの噴水がある池に突進した。象使いも制御できなかった…。
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さまざまな経験を積み重ねられ、のちに御堂筋パレードを提案されるなど、活躍された伊吹さん、とどまることなく次々お話しくださるバイタリティーに敬服した半日でした。ハプニングだらけ!と言いながらやはり楽しそうなお話しぶりが印象的でした。本当にありがとうございました。また万博展本番の時にも、おこしいただけたらな~と思いました。
※写真2枚目は「万博展」企画にご協力を頂いている白井さんの「万博ミュージアム」のサイトから、3・4枚目は「吹田のアルバム展」に展示された野口昭雄さんの写真(1970/8/12撮影)から。
(Report by こぼら、おーぼら、okkun)
コメント
想像なんですが(^_^; 写真の奥に何件かの平屋の民家が見えるので 今のモノレールの車庫のあたりではない様な気がします
小僧寿しの研修センターは 三っ辻から 西南方向の高いところにあった気がするんだけど 今まだあったかなぁ?
お話しの 2国の淀川河川敷で一泊は 西国街道の武庫川河川敷で一泊が 正解みたいですね(^_-)
きょうのアクセス 714??リセット係盆休みですなこりゃ。たまにあるみたい。